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強弓の達人・源為朝は本当に「生まれつきの乱暴者」だったのか?

「歴史人」こぼれ話・第29回

「乱暴者」とも「心優しき武将」ともいわれた為朝

八丈島に安置され大明神と神格化され描かれた源為朝。「鎮西八郎為朝」『英勇一百伝』/都立中央図書館蔵

 源為朝(みなもとのためとも)という武将をご存知だろうか。頼朝の父・義朝(よしとも)の異母弟で、頼朝からみれば叔父にあたる御仁である。身長は7尺(約2メートル10センチ)という巨漢で、剛勇無双。強弓(ごうきゅう)の使い手というばかりか、史上最強の武人とまで謳われた豪傑である。

 

 ただし、保元の乱の動向を記した『保元物語』によれば、生まれつきの乱暴者ということになっている。父がこの息子を持て余し、とうとう九州に追放したとまで記されているのだ。

 

 ところが、九州各地に伝えられている為朝伝説を見ると、様子が異なる。その多くが、為朝を心優しき英雄として讃えているからだ。為朝は、ただの乱暴者ではなかった。むしろ郷土の誇りとして、当地に立ち寄った為朝の武勇を誇らしげに語り、英雄として讃えているのだ。

 

 実は、為朝が乱暴者ゆえに勘当されて九州に追いやられたというのは詭弁で、源氏勢力の拡大を目指して九州に送り込まれたと考える方が自然なのだ。

 

 ちなみに『保元物語』によれば、為朝13歳の頃、豊後(ぶんご/大分県)の尾張権守家遠(おわりごんのかみいえとお)を後見人として頼った後、薩摩の阿多忠景(あたただかげ)の婿になったという。15歳になるまでに、大きな合戦を20余度も経験。朝廷から任じられてもいないのに、勝手に鎮西総追捕使を名乗ったとも記している。ただし、具体的にどこで何をしたか、詳細は記さないままであった。

 

 その動向を記す唯一の資料ともいえるのが、江戸時代に記されたと見られる軍記物『肥陽軍記』であった。そこには、為朝が「東肥前の屋形原に館を構えて居住した」と記されているのだ。しかも、「兵士を大事にした上、民衆を救い、なびかぬ草木もないほどであった」というから、心優しき武将だったことは間違いなさそうである。

屋形原の北にそびえる鎮西山。撮影/藤井勝彦

 その「東肥前の屋形原」とは、佐賀県上峰町に今も名が残る屋形原のことで、背後にそびえる鎮西山を皮切りとして、周辺に為朝伝説が数多く伝えられている。為朝が一時的とはいえ、この地を拠点として周辺各地に点在する平家の所領を荒らし回っていたと考えられるのだ。

 

 すぐ側には、大宰府と並ぶ日宋貿易の拠点・神埼荘(かんざきのしょう)もあったから、財政基盤を確立させるためにも、同地の攻略は欠かせなかったに違いない。義父の阿多忠景を通じて薩摩を征していた為朝が、当時肥前に勢威を張っていた豪族・日向通良(ひゅうがみちよし)に攻撃を仕掛けて屈服させた上、同地を占領したとも考えられる。

鎮西山中腹の五万ヶ池は、為朝が5万もの兵を迎え撃ったと伝えられる 撮影/藤井勝彦

 ただし、為朝が京の都に呼び戻されたことで、通良が再び勢威を盛り返したのだろう。その動静を危惧した平清盛が、家臣・平家貞(たいらのいえさだ)を送り込んで通良を攻め滅ぼしてしまった…との図式が考えられる。ただし、これはあくまでも筆者の推測。真相は定かではないということも付け加えておきたい。

 

 それでも、都に戻った為朝が保元の乱に巻き込まれた後、伊豆大島へと配流(はいる)。流罪(るざい)者の身でありながらも大暴れして、とうとう官軍に攻め込まれて自害したというのは、おそらく事実だろう。伊豆大島に残る伝承も、概ね為朝には好意的だ。為朝は今も多くの人々の心の中で、「心優しき暴れん坊」として慕われ続けているのである。

 

 さて、本来なら伊豆大島で自害して果てたはずの為朝であるが、この御仁、その武勇の為せる技か、後世の人々に慕われるあまりか、そこでは死なずに逃げ延びたとの伝承が、まことしやかに伝えられているのだ。

 

 場所は琉球などがよく知られているが、意外なところというべきが、愛媛県東温市滑川にひっそりと佇む光明寺である。清和源氏の流れを汲む伊予の豪族で、水軍としても名を馳せた河野氏が、伊豆大島に流された為朝を密かに救出して、伊予へと迎え入れたという。

 

 河野氏といえば、壇ノ浦の戦いにおいて源氏方に与して勝利に導いたことで知られる水軍を率いた一族である。境内にある為朝の墓(あるいは廟か)が、その証というべきか。

 

 まさか為朝が、その時まで生き延びて戦いに加わっていたとは考え難いが、河野水軍に救い出されたことが真実で、その時まで為朝が生き延びていたとすれば、まんざらあり得ない話ではない。もしも…というのはタブーとはいえ、そんな妄想をついつい抱いてしまいたくなるのだ。

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藤井勝彦ふじい かつひこ

1955年大阪生まれ。歴史紀行作家・写真家。『日本神話の迷宮』『日本神話の謎を歩く』(天夢人)、『邪馬台国』『三国志合戰事典』『図解三国志』『図解ダーティヒロイン』(新紀元社)、『神々が宿る絶景100』(宝島社)、『写真で見る三国志』『世界遺産 富士山を行く!』『世界の国ぐに ビジュアル事典』(メイツ出版)、『中国の世界遺産』(JTBパブリッシング)など、日本および中国の古代史関連等の書籍を多数出版している。

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