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史上最強の戦士・源為朝が倒した妖怪とは?

鬼滅の戦史㊸


8人がかりでやっと引くことができるという八人張りの強弓(ごうきゅう)を武器に、九州ばかりか伊豆諸島をも掌握。源為朝(みなもとのためとも)は、矢一本で敵の軍船を沈め、数十キロも離れたところにまで矢を飛ばすことができたというほどの剛の者であった。加えて、大蛇や妖魔まで撃退して気勢を上げたとなれば、もはや史上最強の戦士と言わざるを得ない。その猛将ぶりや、果たしてどこまでが事実だったのだろうか?


八人張りの強弓で軍船をも沈める剛の者

八人張りの強弓を引く為朝。『椿説弓張月』/椙山徐学園大学蔵

 史上最強の戦士は誰か?というテーマは、鬼や妖怪をテーマとするこの連載にふさわしくないのではないか?…と、思われる方もいるに違いない。しかし、それが鬼や妖怪を退治する側の人物で、大蛇ばかりか妖魔までもいとも容易く撃退したとなれば話は別。妖怪退治を語る上で、むしろこの御仁の最強ぶりこそ、是非とも語らなければならないだろう。その上、人間世界においても、向かうところ敵なし。かの『三国志演義』に登場する関羽や呂布さえ凌駕する…となれば、もはや語らぬままにしておくことなどできそうもない。

 

 その御仁というのが、河内源氏の流れを汲む、源為朝(11391170)である。八幡太郎の名で知られた武将・源義家のひ孫で、鎌倉幕府を開いた頼朝の叔父。鬼退治で名を成した源頼光(摂津源氏)の5代後の人物でもある。

 

 為朝は少々乱暴が過ぎて父に追い出され、鎮西(九州)へ向かった後、当地でも暴れまくり、ついには総鎮撫使(そうちんぶし)と称して九州全土を掌握してしまうほどの豪傑であった。

 

 身長7尺(約2m10㎝)もの巨漢で、弓を支える左腕が、弦を引く右腕よりも4寸(約12㎝)も長いという、まさに弓を引くために生まれてきたような体型。強弓の使い手となり、剛勇無双と謳われたものであった。8人がかりでやっと引くことができるという八人張りの強弓を容易く引き絞って矢を射るや、敵兵3人を一気に射抜くことなど朝飯前。一本の矢を射ただけで軍船を沈めたばかりか、数十㎞も離れたところまで矢を放つことができたという御仁である。

 

 その猛者が、頭だけでも差し渡し2間(約3.6m)もあるという大蛇を容易く退治し、ワザワイという名の怪獣をも自在に操る妖賊をも撃退したというから、何とも恐れ入る。たかだか重さ82斤(約18㎏)の青龍偃月刀(せいりゅうえんげつとう)を振り回して猛将・華雄を打ち取ったことで名を成した関羽など、スケールが小さ過ぎると言いたくなるほどの御仁なのである。もちろん、どちらも創作上での豪傑ぶりだから、そもそも比較すること自体、意味をなさないことはいうまでもない。それでも、為朝の豪快さは群を抜いているから、思わず伝承ということを忘れて、熱く語ってしまうのだ。

 

3.6mもの大蛇の頭を撃破して退治

 

 ともあれ、為朝は強い。史実としては、保元の乱で崇徳院に与して敗退。伊豆大島に流されてしまうが、そこでもまた大暴れ。最後は官軍に攻め込まれて、あえなく自害…と、相当な暴れん坊であったことは間違いないようだ。これは、保元の乱の詳細を記した『保元物語』に記されたお話であるが、これを元にして滝沢馬琴が書き上げた読本『椿説弓張月』や各地に伝わる伝承などでは、さらに話が大きく膨らんでいる。為朝を、人間ばかりか大蛇や妖賊(ようぞく)まで退治する超人的な人物とみなしているのだ。早速、その猛者の大蛇や妖賊退治について見ていくことにしよう。

 

 同書では、大分県の木綿山(由布岳)での大蛇退治が語られているが、為朝ならではの活躍ぶりを示す伝承の舞台としては、佐賀県武雄市と有田町にまたがる黒髪山の方がふさわしいだろう。そこに住む大蛇を、為朝が矢を射て仕留めたとする大蛇伝説が伝えられているからだ。村人に害を為す大蛇を退治せんと黒髪山に向かう為朝。大蛇をおびき寄せつけるために用意した美女に、大蛇が今にも襲いかからんとする。その刹那、為朝の放った矢が大蛇ののど首に命中。続けて二の矢を放てば、差し渡し2間(約3.6m)あろうかという大蛇の頭までパックリ割れて、見事退治したというのだ。

 

 ちなみに、史実としての為朝は伊豆大島で自害したことになっているが、読本『椿説弓張月』では伊豆大島では死なず、琉球にまで逃げ延びたことになっている。そこで出会った寧王女 (ねいわんにょ) に救いの手を差し伸べ、琉球王朝を我がものとする宰相・利勇に与した妖魔・朦雲(もううん)と対峙することに。朦雲とは、今を去ること1万8千年もの大昔に虬塚 (みづちづか) に閉じ込められた怪僧で、宰相・利勇によって再びこの世に出現してしまったもの。妖術を駆使して国を乗っ取ろうとまでした妖賊であった。幻術を駆使して人をたぶらかすため、容易には撃退し難い輩である。ワザワイという名の怪物を出現させて暴れ放題。さらには、法君と称して悪逆無道ぶりを発揮するのであった。

 

為朝が朦雲を退治、本性は蛇竜であった。『椿説弓張月』/椙山徐学園大学蔵

 これには、流石の為朝も為すすべなしか?と思われそうだが、実のところ、為朝にはもう一つ、心強い武器があった。崇徳院から授かった霊剣・鵜丸である。為朝の父・為義が崇徳院から授かった剣で、『椿説弓張月』では為朝が受け継いだことになっている。まずは矢を放って朦雲ののど首に突き刺した後、この鵜丸を9度も刺すや、かの妖賊も霊威を発揮することもできず、撃退することができたというのだ。死した朦雲はといえば、見る見るうちに、長さ5〜6丈(約1518m)もあろうかという虬竜(きゅうりゅう)になっていったという。そして、顎の下から、「琉」と「球」という2つの珠がこぼれ落ちたとも。これが、琉球王の権威の象徴。つまるところ、神器であることはいうまでもない。それを手にした為朝が王位に就くかと思われたものの、我が息子の舜天に後事を託して、ついに昇天してしまうのであった。

 

 この舜天(しゅんてん)の名は、琉球王朝の正史とされる『中山世鑑』や『中山世譜』にも記され、その父として「鎮西八郎為朝」の名が登場する。姓まで「源」としているが、それらが史実であったかどうかは怪しい。むしろ、薩摩藩による琉球侵攻を正当化するための根拠として利用されたものと見なすべきだろう。為朝伝説は主として関西以西に数え切れないほど存在するが、そのいずれもが、土地の人々の為朝を慕う心持ちに溢れている。しかし、琉球(沖縄)における為朝伝説は少々異質。何やら、そこに組織的な作為を感じてしまうのだが、果たして?  筆者の考え過ぎなのだろうか?

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藤井勝彦ふじい かつひこ

1955年大阪生まれ。歴史紀行作家・写真家。『日本神話の迷宮』『日本神話の謎を歩く』(天夢人)、『邪馬台国』『三国志合戰事典』『図解三国志』『図解ダーティヒロイン』(新紀元社)、『神々が宿る絶景100』(宝島社)、『写真で見る三国志』『世界遺産 富士山を行く!』『世界の国ぐに ビジュアル事典』(メイツ出版)、『中国の世界遺産』(JTBパブリッシング)など、日本および中国の古代史関連等の書籍を多数出版している。

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