天神が胎内に宿って生まれたという牛鬼・丑御前の実像とは?
鬼滅の戦史㊳
善神である牛頭天王(ごずてんのう)が化身として現れる牛鬼は、人々に害を為す鬼だったといわれる。『吾妻鏡』に登場する丑御前(うしごぜん)も牛鬼である。その丑御前は、源満仲(みなもとのみつなか)の子でありながら、菅原道真の怨霊が宿ったと疑われ、兄にあたる頼光(よりみつ)の討伐を受けてしまう。巨大な化け物と化し、武蔵において7万もの兵と戦ったと伝わる丑御前の実像に迫りたい。
老僧を食い殺した牛頭鬼
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牛鬼が逃げ込んだとされる牛嶋神社の撫で牛の像。
牛頭天王が、災厄除去において霊験あらたかな天竺渡来の神様であったことは、牛頭天王の回でも詳しく記した。頭が牛という奇怪な姿ゆえ恐ろしげに見えるが、その実、多くの人に徳を施したとして祀られたようである。
ところが、牛頭天王が善神であったにもかかわらず、その化身として姿を表したとされる牛頭鬼や丑御前といった牛鬼の方は、なぜか人々に害を為す鬼、あるいは万を越す兵をも打ち破るような強靭な鬼として語られている。ここではまず、『今昔物語集』巻十七(第四十二話)に記された牛頭鬼から見ていくことにしたい。
舞台は日本海に面した但馬国(兵庫県北部)の山寺のお堂の中。老若二人の僧が、日も暮れたため、そこで一夜を明かそうとした時のことである。二人が寝静まった深夜、突如、牛頭鬼が鼻息も荒々しく堂内に押し入ってきたという。若僧は気付いたものの恐ろしく、ひたすら法華経を念じるばかりであった。と、思う間も無く、牛頭鬼は、若僧に近づくことなく老僧の元へ。そして、いきなりその身体を引き裂いて喰い殺してしまったというのだ。若僧は今度こそ自分の番だと恐れ、無我夢中で堂内に安置されていた仏像に抱きついたところで気を失ってしまった。と、夜も明けて目が覚めてみると、自分が抱きついていたのは毘沙門天で、その前に、3つに斬られた牛頭鬼(ごずき)が倒れているのが目に入った。毘沙門天が手にする剣に血が滴っていたところから、若僧が気絶している間に、毘沙門天が退治してくれたようであった。
毘沙門天といえば、四天王の一尊(多聞天とも)にも数えられた仏法の守護神。夜叉(やしゃ)や羅刹(らせつ)といった鬼神を配下とするほどの心強い武神である。この仏神にすがったことで救われたというのだから、本来なら「有り難や〜」…と手を合わせたくなるところである。しかし、気になるのが、「法花の持者」すなわち法華経を受持していた若僧だけが救われ、持経者でなかった老僧を見殺しにしてしまったこと。いかに法華経の功徳を讃えた説話とはいえ、老僧には一切功徳を施さなかったところは、無慈悲としか思えないのだ。
浅草寺にも牛鬼が出没して僧を殺害
話を牛鬼に戻そう。この鬼、実は但馬国ばかりか、そこから遥か東南、武蔵国浅草寺にも出没したことが、鎌倉時代に成立した『吾妻鏡』の第四十一巻に記されている。「牛の如き怪異なる者」が忽然と現れたという。この時食堂之間には、50人ほどの僧が法会のための読経の最中であったが、この怪物を目にしただけというにもかかわらず、うち24人が病に倒れ、7人が即死したとか。浅草寺から立ち去った牛鬼は、その後、隅田川を渡ったところにある牛嶋神社(元は桜橋近くにあったとか)に逃げ込んだとも伝えられるが、真相は不明。この神社の祭神が、かの牛頭天王の化身ともいわれるスサノオであるというのも、何やら曰くありげで気になるところ。まるで神社(神道)が寺院(仏教)を襲ったかのような、図式を思い浮かべてしまうのだ。
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鎌倉時代に牛鬼が出没したといわれる浅草寺。
武蔵国の三田に陣を張る頼光軍に対し丑御前は鈴が森で応戦
さて、本題はここからである。牛鬼の中のもう一方の鬼・丑御前が、実に興味深いのだ。牛頭鬼が人を襲って死に至らしめる、いわば血も涙もないおぞましい鬼であったのに対して、丑御前なる鬼は、少々様相が異なっている。それが登場するのは、元禄〜宝永年間(1688〜1711年)に作られたとみられる古浄瑠璃『丑御前の御本地』である。
概要をかいつまんで見てみよう。源頼光ゆかりの物語というから、およそ10世紀半ばから11世紀初頭にかけてのお話である。ここでは、菅原道真(845〜903年)の御霊とされる北野天神が、源頼光の母の胎内に宿ったことから物語が始まる。
胎児が3年3ヶ月もお腹の中にいたというのは信じがたいが、ともあれ、丑の日、丑の刻に生まれたことで、丑御前と呼ばれたようである。生まれた時から歯が生え、髪の毛が四方に広がっていたということに加え、出産時の姿が鬼神の如き様相だったことで、鬼子とみなされたとも。この辺り、他に何らかの事情があったと思われるが、それは謎。ともあれ、頼光の父・満仲が怪しんだことはいうまでもない。父親が誰なのか、不審に思ったことも一因であったに違いない。その挙句、満仲が、臣下である藤原仲光に、生まれたばかりの赤子を殺すよう命じたのだ。
もちろん、どんな子供であったとしても、子供を思う母の愛情には変わりはなかった。その気持ちを汲んだ仲光が、丑御前を密かに大和国の金峯山(きんぼうざん)に隠し、荒須崎という女官に育てさせたというのだ。
この辺りの様相は、謡曲『仲光』にも語られている(ただし、丑御前は美女御前の名で登場)が、ここでは、仲光が主君の子を殺すことができず、自らの子の首を刎(は)ね、丑御前の身代わりとして満仲に差し出したことにしている。現代人には計り知れないが、我が子への想いよりも主君への忠義が優先するとの考え方が、当時の武家社会に浸透していたのかもしれない。
ともあれ、それから15年、ついに満仲が、事の真相を知ることになる。激怒した満仲は、時を経るにつれて丑御前憎しの思いが募り、ついには総勢7万もの軍勢を頼光に授け、丑御前討伐の命を下したのである。武蔵国の三田に陣を張る頼光軍に対して、丑御前は関八州の兵を集めて鈴が森に陣を張って応戦。激戦となった末、最後は10丈(約30m)もの巨大な牛と化し、敵を大いに打ち破ったというのだ。
丑御前は父・源義仲(みなもとのよしなか)に忌避(きひ)されて捨てられた挙句、朝敵とまでみなされて責め立てられたことで、ついに鬼に変貌。頼光に敗れた後も怨霊と化して、世に現れては祟りを為した、悲運な存在であった。