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義民と称えられた佐倉惣五郎が怨霊と化して藩主の一家に復讐?

鬼滅の戦史㊷


重税に苦しむ農民を救わんと、命を賭して将軍に直訴した江戸時代の義民である佐倉惣五郎(そうごろう)。直訴の甲斐あって、重税は見送られたものの、藩主らの圧力により自身ばかりか妻子までもが首を刎ねられてしまう。その後、藩主家である堀田家を襲った不幸の数々は、惣五郎の祟りによるものだったのだろうか?


下総国印旛郡公津村の名主でありながら命を賭して将軍に直訴

寛永寺に来た将軍に直訴する佐倉宗吾・宗吾御一代記館内ジオラマ/藤井勝彦撮影

 

 佐倉惣五郎(通称・宗吾)といえば、重税に苦しむ農民のために、命を賭して将軍への直訴に及んだとされる義民である。下総国(しもうさのくに)印旛郡公津村の名主でありながらも、農民の苦しむ姿を見かねて行動を起こし、見事目的を果たしたものの、自身と妻は磔(はりつけ)の刑、4人の子も打ち首という極刑に処せられた悲運の人であった。ともあれ、まずはその佐倉惣五郎伝説なるものの全容を振り返ってみることにしたい。

 

 事件が起きたのは、江戸時代前期のことである。当時の印旛沼周辺は、干ばつや洪水などが頻発し、多くの人が飢えに苦しんでいた。そんな悲惨な状況にもかかわらず、佐倉藩主・堀田正信が検地を実施して、さらなる増税を目論んだというのだ。当然のことながら、農民の多くが税を収められず、先祖伝来の土地を捨てて離散するものが後を立たなかった。この窮状を救わんと立ち上がったのが、惣五郎をはじめとする佐倉藩領内157人もの名主たちであった。彼らが示し合わせて、代官や郡奉行、国家老などに訴え出たのである。ところが、何処も門前払い同然でラチがあかず、もはや将軍・家綱のもとへの直訴しか手立てがないという状況に追い込まれたようである。訴え出れば、死をも覚悟しなければならない状況だけに、皆揃ってという訳にはいかなかった。そこで名乗りを上げたのが惣五郎であった。自分一人、命を差し出す覚悟であったという。

 

 直訴決行の舞台となったのは、上野の寛永寺。将軍が参詣に訪れるという情報を掴んだ惣五郎は、前夜からその通り道に当たる、忍川に架かる三橋の下に潜み、将軍を乗せた駕籠(かご)が通るのを待ち構えたのである。将軍が通りがかるや、すかさず飛び出した惣五郎は、直訴の作法通り、訴状を上と上書きした紙に包んで一間もの長い竹に挟んで差し出した。その際、歌舞伎の演目『佐倉義民伝』などによれば、供侍が機転を利かせて声高に訴状を読み上げたという。

 

 ともあれ、訴えが将軍の耳に入ったことで、特別に配慮され、佐倉藩に善処するよう命じたという。その後増税が見送られ、多くの農民たちが胸をなでおろしたようである。

 

妻子共々極刑に処せられた悲劇

 

 ところが、将軍から直々に藩内の失政を指摘されたことから、藩主・正信や重臣たちは面目を失うとともに激怒した。その首謀者たる惣五郎を許してなるものか…とばかりにこれを捕らえ、ついには惣五郎ばかりか、妻子までも同罪として処刑したのである。一説によれば、大仏頂寺(仏光寺とも)の僧侶であった叔父・光然(こうねん)が助命を嘆願したものの聞き入れられず、刑が執行されてしまったとか。激昂した光然が、打ち捨てられた子供達の首を抱いて、印旛沼に沈んでいったともいわれている。惣五郎夫妻の処刑に際して、光然が二人に向かって、「悪鬼となって堀田家に祟れ!」と叫んだと語られることもある。

 

 ちなみに、この事件にはもう一人犠牲者がいることをご存知だろうか? 惣五郎が将軍への直訴に向かおうとして家を出た時のことである。夜半、密かに印旛沼を渡ろうとする惣五郎の心意気に感じ入った渡し守の甚兵衛が、禁制を破って繋がれていた鎖を切り、船に惣五郎を乗せたのである。無事、惣五郎を対岸へと運び終えた甚五郎は、囚われの身になることを恐れ、そのまま印旛沼に身を投げたのだとか。何れにしても、惣五郎ばかりか、その親族、縁者までもが犠牲になった挙句、事件は一件落着したかのように見なされたのである。

 

『浅倉当吾亡霊之図』一勇斎国芳筆/国立国会図書館蔵

怨霊となって堀田家に祟り出た?

 

 ところが、惣五郎らが処刑されてしばらくするうち、佐倉藩主家・堀田家に次々と不幸が襲ってきた。正信の正室の不審死に続いて、突如正信が、幕政を批判するとともに領地をも返上するとの上申書を提出。さらに、無断で江戸へ出奔して帰城してしまったのだ。この正信の一連の行動を「乱心」と見なされたことで、堀田家は改易。正信自身も信州飯田の脇坂安政の元に預けられた後、徳島へと流されている。驚くことに、そこで正信は何を思ったか、鋏で喉を突いて自害するという奇妙な行動を起こしたのである。

 

 その後も悲運が続いた。大老となっていた正信の弟・正俊が、江戸城中において、従兄弟の稲葉正休(まさやす)に刺殺されたばかりか、その子・正仲(まさなか)までもが、33歳という若さで病死。正仲は、重税を課して領民を苦しめた藩主としてもその名を知らしめた人物であった。

 

 これら一連の堀田家に降りかかった悲運が、遠からず、惣五郎らを死に至らしめたその祟りであると噂されるようになっていったことはいうまでもない。

 

 はからずも光然が惣五郎に対し、忿怒(ふんぬ)の怒りをもって鬼となれと言い放った、その言が、現実のものとなったのだ。彼らの怨念が、堀田家を凋落へと追い込んでいったとまことしやかに語られるようになっていく。その後、歌舞伎や浄瑠璃、講談などでも取り上げられ(『東山桜荘子』『花雲佐倉曙』『佐倉義民伝』など)、広く知られるようになっていったのだ。この惣五郎の怨霊伝説が果たして真実かどうかは定かではないが、重税を課されて苦しむ領民にとって、自らを不幸に陥れた藩主家に制裁を加えたとして、溜飲を下げることに役立ったことは間違いなさそうである。

 

 惣五郎の死もまた、多くの人の心の中に、今なお支えとして生き続けているようである。祟り話となっても、その死が無駄死にでなかったことが、何よりの救いであろう。

 

佐倉惣五郎らが葬られた東勝寺/藤井勝彦撮影

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藤井勝彦ふじい かつひこ

1955年大阪生まれ。歴史紀行作家・写真家。『日本神話の迷宮』『日本神話の謎を歩く』(天夢人)、『邪馬台国』『三国志合戰事典』『図解三国志』『図解ダーティヒロイン』(新紀元社)、『神々が宿る絶景100』(宝島社)、『写真で見る三国志』『世界遺産 富士山を行く!』『世界の国ぐに ビジュアル事典』(メイツ出版)、『中国の世界遺産』(JTBパブリッシング)など、日本および中国の古代史関連等の書籍を多数出版している。

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