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京都市内の町屋に置かれる鍾馗(しょうき)、その鬼封じの個性的な力とは?


日本史上で、鬼滅の戦士として伝わるのは、悪路王(あくろおう)を退治したとされる(さかのうえのたむらまろ)。そして源頼光配下の四天王(渡辺綱、坂田金時、卜部季武、碓井貞光)らが知られる。陰陽師の安倍晴明も怨霊封じの達人として登場するが、同時代には厄除けの神様としてその名が知られた鍾馗がいた。平安時代から江戸時代へかけて変化した、鬼滅のあり方を探る。


鍾馗は中近東シリアのパルミラで実在、道教の神に変じて祀られた?

日本に渡来してきた鬼封じの権化『鍾馗』月岡芳年筆 都立中央図書館特別文庫室蔵

 伝承としての鬼滅の戦士としては、源頼光配下の四天王(渡辺綱、坂田金時、卜部季武、碓井貞光)が何と言ってもよく知られるところ。陰陽師(おんみょうじ)の安倍晴明(あべのせいめい)も、怨霊(おんりょう)封じの達人として、四天王の鬼退治物語にも登場している。悪路王大獄丸(おおたけまる)を退治したとされる坂上田村麻呂も、忘れてならない名将の一人だろう。

 

 しかしながら、実力ばかりか、風貌からして彼らを圧するというべきなのが、厄除けの神様としてその名が知られた鍾馗である。もともと中国伝来の道教の神様であるが、日本に渡来してからは、「鍾馗さん」あるいは「鍾馗様」「鍾馗大明神」「鍾馗大臣」などと呼ばれて親しまれた御仁。モジャモジャの髭と頭髪姿は、まるで獅子のごとき様相。ギョロッと睨めつける大きな目も特徴的で、剣を振りかざしながらその目で睨まれたら、さしものの鬼さえ逃げ出してしまいそうである。

 

 この渡来神、実は、京都市内の町屋を歩けば、今もそこかしこで見つけることができる。多くは、通りに面した小屋根の上に、ちょこん。20~30㎝の瓦で作られた小さな人形としてではあるが、京都市内だけでも3千は下らないとみられているから、気をつけてみれば、必ず目にすることができるはず。いずれも、個性的で、見ようによっては、お茶目で愛くるしいといえるかもしれない。

 

 この鍾馗がどのような経緯で日本に伝わってきたか定かではないが、ルーツをたどれば、中近東シリアのパルミラ(ローマ帝国時代の都市遺跡)にまでたどりつくといわれることもある。神殿の入口に、厄除けを目的としてメドゥーサ(ギリシャ神話に登場する怪物)の首を象ったゴルゴネイオンがその始まりとか。これがシルクロードをたどって中国に伝来。道教の神に変じて祀られたようである。唐文化を積極的に吸収しようとしていた奈良時代には、すでに日本でも厄除けのための鬼瓦が伝えられているから、鍾馗なる鬼退治の権化も、もしかしたらこの時、鬼瓦と共に伝えられていたのかもしれない。

 

 確かなところでは、平安末期から鎌倉時代初期の12世紀頃の作とされる辟邪絵(へきじゃえ/鬼退治の善神を描いた絵巻物)に鍾馗が描かれているから、この頃にはすでに鬼退治の神様と認識されていたようである。

 

玄宗が夢で守ってくれた鍾馗の肖像を描かせて民に配布

 

 面白いことに、中国ではこの鍾馗、何と実在の人物のごとく伝えられている。その名は、明代の陳耀文(ちんようぶん/15731619年)が編纂した類書(百科事典)『天中記』に引用された『唐逸史』なる歴史書に記されている。そこでは、鍾馗なる人物は、終南県(中国陝西省)出身の進士として登場。科挙の最終試験である殿試に臨んだものの、落第(容貌の醜さによるものとも)したとする。絶望した鍾馗が、大理石の階段に頭をぶつけて自害。これを哀れに思った高祖(566635年)が、丁重に葬ったというのだ。この高祖に目をかけてもらったことに恩義を感じた鍾馗の霊魂が、後世の玄宗(げんそう)の夢枕に現れ、玄宗を惑わして病に伏せさせていた小鬼を苦もなく捕らえて身体を引き裂いて食べた(つまり退治した)とか。病が癒えて夢から覚めた玄宗は感涙し、画家・呉道玄(ごどうげん)に、夢に現れた鍾馗の肖像を描かせて民に配布したといわれている。除夜(後に、端午の節句時へと移り変わる)にその絵を掲げて、邪鬼払いするよう命じたのだというのだ。

 

 それにしても、なぜ前述したように、京都の町屋に瓦鍾馗が目白押しなのだろうか。この由来に関しては、文化文政年間(18041830年)にまとめられた『街談文々集要』が詳しい。それによれば、京都三条の売薬屋の屋根に大きな鬼瓦を作ったことがきっかけになったという。この家の向かいの女房が、鬼瓦を一目見るなり、急に具合が悪くなった。女房を診察した医者が、これを鬼瓦の鬼の仕業と推察。瓦で鍾馗の像をこしらえ、向かいの鬼瓦に対峙するかのように、此方の屋根に鍾馗像を掲げたところ、程なく病が癒えたのだとか。つまり、鬼瓦から跳ね返ってきた鬼を鍾馗像が跳ね返したというわけである。この話が都中に広まって(あるいは瓦屋が広めたか)、いつしか、屋根の上(鬼門に置く場合もある)に瓦鍾馗を掲げるのが当たり前のようになっていった…というわけだ。以降、鍾馗さんと親しみを込めて呼ばれるようになったようである。

 

なぜ男性器がついているのか?

 

 一説によれば、鬼は真っ直ぐにしか進めないため、T字路の突き当たりの家は特に必要だというが、果たして? また、お寺の周りに鍾馗さんが置かれることが多いとも。これは、仏の霊力に跳ね飛ばされた鬼が、周りに跳ね返されてしまうからなのだとか。これが本当だとすれば、お寺の周りの家々にとっては迷惑千万。何とも皮肉なお話である。

 

 最後にユニークな鍾馗像のお話を一つ。それが、新潟県東蒲原(ひがしかんばら)郡阿賀町に伝わる鍾馗様(鍾馗大明神)のことである。長年にわたって毎早春に行われてきた伝統行事であるが、ここで祀られるのが、藁で作った鍾馗像。何と、藁を束ねた巨大な男性器までもが取り付けられているのだ。厄除けはいうまでもなく、子孫繁栄の願いまで込められていることは間違いない。両手を大きく広げたその姿は、まさに鬼を通すまいと必死に踏ん張っているようで逞しいが、何もそこまで男性器を大きくしなくてもいいのでは…と首を傾げてしまうのだ。なぜ男性器までついているのか、その理由は不明である。

 

 

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藤井勝彦ふじい かつひこ

1955年大阪生まれ。歴史紀行作家・写真家。『日本神話の迷宮』『日本神話の謎を歩く』(天夢人)、『邪馬台国』『三国志合戰事典』『図解三国志』『図解ダーティヒロイン』(新紀元社)、『神々が宿る絶景100』(宝島社)、『写真で見る三国志』『世界遺産 富士山を行く!』『世界の国ぐに ビジュアル事典』(メイツ出版)、『中国の世界遺産』(JTBパブリッシング)など、日本および中国の古代史関連等の書籍を多数出版している。

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