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悪路王(あくろおう)~まつろわぬ蝦夷の族長が投影された悲運の鬼

「鬼滅の戦史」第9回

8つの頭に眼が多数という奇怪さ

悪路王(阿弖流爲)が潜んだとされる逹谷窟毘沙門堂 写真/藤井勝彦

 各地に伝わる鬼退治の伝承に度々登場するのが、平安時代の名将・坂上田村麻呂(さかのうえたむらまろ)である。この連載の第3回で紹介した大嶽丸を始め、長野県の魏石鬼八面大王(ぎしきはちめんだいおう)、三重県の金平鹿(こんへいか)、岡山県の阿久良王(あくらおう)等々、数え切れないほどの鬼たちを退治したと伝えられている。もちろん、いずれも史実とは言い難いものではあるが、元となった何らかの事象を反映したものであることはいうまでもない。この連載が目指すところは、まさに、そんな伝承の陰に潜む史実を洗い出すところにある。どこまで真相を炙り出せるか、少々心もとないが、チャレンジあるのみと心して取り掛かりたい。

 

 ともあれ、田村麻呂へと話題を戻そう。史実としての田村麻呂は、2度も征夷大将軍を拝命して、蝦夷(えぞ)征伐に出陣。見事征伐を遂げて帰還したとして知られた人物である。伝承の中では、大嶽丸征伐物語のように、田村丸の名で登場することもある。

 

坂上田村麻呂「月百姿音羽山月 田村明神/国立国会図書館蔵

 その名将の名が、特に頻繁に語り継がれることの多いのが東北地方である。いうまでもなくこの地域は、史実としての田村麻呂が、蝦夷征伐に赴いたところ。そこで特筆すべきなのが、奥州逹谷窟(おうしゅうたっこくのいわや・岩手県平泉町)を拠点としていたとされる悪路王の征伐物語である。鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』にも、田谷窟(逹谷窟)という名の砦を構えていた賊主・悪路王が、田村麿(麻呂)や藤原(田村)俊仁(実在の藤原利仁を投影した伝説上の人名か。悪路王に妻・照日御前をさらわれたとも)らに征伐されたことが記されている。

 

 『御伽草子』『立烏帽子』では阿黒王の名で登場するが、その容姿は、8つの頭に眼が数多く散らばるという、実に奇怪な姿で描かれている。まるで『鬼滅の刃』に登場する那田蜘蛛山(なたぐもやま)の鬼一家の父・蜘蛛鬼を彷彿とさせるようなおぞましさである。考えられる限りの最も醜悪な姿を編み出したというべきか。

 

 また、「大きな桶に人間を鮨のように漬けていた」とか「稚児を串刺しにした」という他、「貴族の館などに忍び込んで娘をさらった」などの悪事を働いていたと記す書もある。ただし、どれも悪路王の残虐さを強調するばかりで、具体性に乏しいという点は注視すべきだろう。うがった見方をすれば、悪路王とは、鬼として征伐されたという割には、そのネタ元となった史実としての人物に、悪事を働いた形跡が見られなかったからではないかと思えるのだ。

 

なぜ阿弖流為(あてるい)が鬼とみなされたのか?

 

 では、悪路王に投影された史実としての人物とは、一体誰のことを指すのか? それはズバリ、田村麻呂が討伐したという蝦夷の族長・阿弖流爲である。

 

 8世紀末から9世紀初頭にかけて、岩手県南部一帯に勢威を張っていた在地勢力のボスである。延暦8789)年の「巣伏の戦い」において、征東将軍・紀古佐美(きのこさみ)率いる推定6千もの大軍を、その4分の1にも満たないわずかな兵で撃破。敵将とはいえ、たちまちにして、その武勇が都に轟いた人物であった。これに懲りた桓武天皇が、満を持して派遣したのが田村麻呂であった。延暦20801)年3月31日に京の都を出立した田村麻呂率いる軍勢は、総数4万もの大軍であった。

 

 しかし、田村麻呂は蝦夷に向かったものの、総攻撃を実施して蝦夷たちを壊滅させることはしなかった。和平交渉に力を入れ、彼らとの共存を目論んだのである。それが功を奏して、翌年には阿弖流為と副将・母禮(もれ)が、兵500余人を率いて降伏。こうして、平和裏に蝦夷征伐を終えたはずであったが、阿弖流為と母禮は、田村麻呂の助命嘆願も虚しく、朝廷から「野生獣心、反復して定まりなし」と決めつけられ、河内国において首を刎ねられてしまったのである。都にいる貴族たちにとって蝦夷とは、野獣同然というわけである。これが、後に悪路王という名を冠せられ、鬼として語られるようになったのだ。

 

伝阿弖流爲母禮之塚 写真/藤井勝彦

 ちなみに、茨城県鹿嶋市にある鹿島神宮は、蝦夷征伐の軍事拠点としての機能をも併せ持っていたことが指摘されているが、そこに、悪路王の首を模したという木造の首像と首桶が収められているのが象徴的である。これは寛文41664)年に奥州の藤原満清(みつきよ)が奉納したものとか。阿弖流為を指すものであることはいうまでもない。

 

 いずれにしても、蝦夷征伐なるものが、先住者としての蝦夷の権利を踏みにじるものであったことはいうまでもない。朝廷による征服軍が押し寄せる以前の蝦夷たちが、平和に暮らしていたことは想像に難くない。当然のことながら、朝廷への服属など、受け入れ難いものであった。それにもかかわらず、有無を言わさず征されたばかりか、鬼とまで蔑(さげす)まされてしまったわけである。本来の鬼はむしろ、朝廷側であったというべきだろう。

 

(次回に続く)

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藤井勝彦ふじい かつひこ

1955年大阪生まれ。歴史紀行作家・写真家。『日本神話の迷宮』『日本神話の謎を歩く』(天夢人)、『邪馬台国』『三国志合戰事典』『図解三国志』『図解ダーティヒロイン』(新紀元社)、『神々が宿る絶景100』(宝島社)、『写真で見る三国志』『世界遺産 富士山を行く!』『世界の国ぐに ビジュアル事典』(メイツ出版)、『中国の世界遺産』(JTBパブリッシング)など、日本および中国の古代史関連等の書籍を多数出版している。

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