安達ヶ原の鬼婆~生きた胎児の肝を取り出すおぞましさ
鬼滅の戦史⑤
東光坊祐慶が覗き見したその先には驚く光景が…

『奥州安達がはらひとつ家の図』 月岡芳年筆/国立国会図書館蔵
福島県二本松市中央を流れゆく阿武隈川。その岸辺に、黒塚と呼ばれる小さな塚がある。通りかかった旅人を殺しては、その血肉を貪るように喰らったという鬼婆が葬られたところである。悪行の末、観音菩薩が放った破魔矢に射られて果てたものの、その導きによって成仏。以後、多くの人々から篤く信仰されたとか。これは、「安達ヶ原の鬼婆」として今日まで言い伝えられているお話である。
時は神亀丙寅(じんきひのえとら)の年(726年頃か)というから、奈良時代も初めの頃のこと。紀州熊野の阿闍梨(あじゃり)・東光坊祐慶(とうこうぼうゆうけい)が、廻国行脚のために熊野を旅立ち、陸奥の安達ヶ原に差し掛かった際に起きた、実におぞましいお話である。寒空の中、日も暮れて泊まるところもなく困り果てていたところで、一軒の岩屋が目に止まった。そこに住む老婆に宿を乞うや、快く招き入れられたという。老婆は客僧のために薪を取りに出かけようとするが、その際、「閨(ねや)の中を決してご覧にならないでください」と、念を押して出かけていったのである。
そう言われては、気になるのが人情。こっそり戸を開けて覗き見てしまった。と、そこで目にしたのが、腰が抜けるほど驚くような光景であった。何と、膿や血にまみれた人間の屍体(したい)が、うず高く積み重ねられていたからである。
これが噂に聞く鬼婆か…と気付いた祐慶が、すぐに岩屋を飛び出して逃げていったことはいうまでもない。しかし、後ろから、老婆が何とも恐ろしい鬼婆の姿になって追いかけてくる。我が恥を覗き見されたことに激怒したとして、必死の形相で迫ってくるのである。もはやこれまでか、と思われたその刹那、冒頭に記したように観音菩薩が現れて、これを退治してくれたのである。
腹を裂いた妊婦が我が子であったという不運
それにしてもこの鬼婆、なぜ人を喰う悪鬼としてこの地に住まうようになったのだろうか? 実は、その前世として、おぞましいながらも不幸な、もう一つの物語が言い伝えられているのである。そこに登場するのは、岩手という名の、乳母として公家屋敷で奉公していた女性であった。
彼女が乳母として育てていた姫が、生まれながら不治の病に侵されていたことが、そもそもの発端であった。姫を溺愛する岩手は、妊婦の胎児の生き肝が効くという易者の言を信じて、それを求める旅に出たのである。その際、実の我が子を都に置いていったことが気がかりで、後ろ髪を引かれる思いであったことは想像に難くない。
それにしても、胎児の生き肝など容易に手に入るものではない。いつしか時が流れ、奥州安達ヶ原までさまよい歩き、無為な時を過ごしてしまったのである。
そんな折、偶然にも若い夫婦が、一夜の宿を求めて岩手の住む岩屋へ訪ねてきた。女は、身重であった。ついに好機到来。頃合いを見て女を一人にするや、出刃包丁を取り出し、女の腹を裂き、すかさず赤子の肝を取り出した。これでようやく都に帰れると安堵したのも束の間、何気なく目にした女の肌着に付いていたお守りを見て驚いた。何と、それは岩手が都に置いてきた我が子に付けたお守りだったからである。今まさに手にかけた女こそ、実の我が子だったのだ。さらに孫まで殺してしまったことに愕然。とうとう、気が触れてしまった。以来、旅人を襲っては喰らうという鬼婆と化したのである。その後にやってきたのが、前述の祐慶…と続くのである。ただし、この2つの物語、実のところ時代設定が合わないところから、後世、無理やり合体させられたものとの説があることもつけ加えておこう。
極め付けの悪女も成仏したことに
ちなみに、『鬼滅の刃』に登場する鬼たちの中で、猟奇的と思われるのが、異形の鬼・玉壺(ぎょっこ)だろう。人間だった頃、壺の中に動物の遺骸を詰め込んで悦に入っていたというから、鬼婆と通じるものがありそう。動物虐待に性的興奮を感じるようになれば、いずれ人への攻撃も苛烈になっていくことは必定。鬼となった玉壺が、死者の尊厳など無視して遺体を無残に扱うようになるのも、むべなるかなというべきか。
ただし、気が狂った後の鬼婆のように、人を殺しては喰らうという、猟奇の果ての人肉食にまで手を出してしまっては、カニバリズム(人肉嗜好)の要素まで加わった極め付けの悪女、悪鬼とみなされても仕方がないだろう。これ以上おぞましいことなど、あるようには思えないからだ。 死後、仏の導きによって成仏したとでもしなければ、とてもやりきれないのである。