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大嶽丸 ~鈴鹿山にはびこる鬼神を田村丸と鈴鹿御前が征伐

「鬼滅の戦史」第3回

身の丈30メートルもの妖怪に変貌した大盗賊

大獄丸と鈴鹿御前『大日本歴史錦絵』東海道五十三對 土山/国立国会図書館蔵

 中世において、大江山の酒呑童子(しゅてんどうじ)と並び称されるほど人々に恐れられたのが、鈴鹿山を根城とする大嶽丸(おおたけまる)であった。酒呑童子の身の丈2丈(約6メートル)というのも驚異的だが、こちらはさらにその上、何と10丈(約30メートル)もあったというから恐れ入る。この数値は、室町時代にまとめられた『御伽草子』(室町物語)に記された説話「田村の草子」に登場するもので、もちろん、作り話であることはいうまでもない。それでも、大江山が山陰道の、鈴鹿山が東海道の要所であったことから、そこにはびこる盗賊たちの暗躍に、民衆ばかりか、時の政権までも大いに頭を悩ませていたことは間違いない。その恐れが、盗賊たちを恐るべき鬼としてイメージされ、時代を経るにつれておぞましさが増幅。ついには、奇怪な妖怪にまで変貌して語り継がれたのだろう。

 

 その征圧に、桓武天皇の御代に征夷大将軍として蝦夷(えみし)征伐に功を為した坂上田村麻呂が関わっていたかのように暗示させている点も興味深い。加えて、平安時代末頃に鈴鹿山の盗賊として名高かった立烏帽子(たてえぼし・鈴鹿御前)まで登場。壮大かつ妖艶な物語に仕上げたのである。何はともあれ、まずは「田村の草子」を振り返ってみたい。

 

妖艶な鈴鹿御前が手引きして鬼退治

 

 舞台は伊勢の国の鈴鹿山である。大嶽丸という、飛行自在で火の雨を降らせ、雷をも落とすことができたという鬼神(きじん)が人々を恐れさせていたという。勅命を受けてその討伐にやってきたのが、俊宗こと田村丸(坂上田村麻呂の他、平安時代の鎮守府将軍・藤原利仁がモデルであったとも)であった。

 

 しかし、3万もの兵を投入したものの、数年たっても征伐は叶わなかった。そこに登場するのが、妖艶な美女・鈴鹿御前であった。その容姿は、『鬼滅の刃』に登場する花魁(おいらん)姿の堕姫(だき)を彷彿とさせるものがありそうだ。

 

 ともあれ、恋仲となった2人は結ばれ、ともに大嶽丸討伐に奮闘するのである。鈴鹿御前が色香をもって大嶽丸を惑わし、一振りするだけで千人の首を切り落とすことができたという大嶽丸所有の3振りの宝剣(三明の剣)のうち2振りを取り上げることに成功。激闘の末、ついには俊宗が投げた剣によって、大嶽丸の首が落とされてしまうのである。しかし、死んだはずの大嶽丸は、その後天竺に残しておいた最後の一振りの霊力によって生還。またもや俊宗が征伐にあたり、名剣・そはやの剣によって、再び切り落とされてしまうのである。締めくくりとしてその首が、朝廷の権力の象徴でもあった宇治の宝蔵に納められた…というのが「田村の草子」の記述である。

 

大嶽丸討伐説話が語るものとは?

 

 この大嶽丸の首が納められたという宇治の宝蔵とは、藤原氏の氏寺であった宇治平等院(藤原道長の長男・頼通が建立)内の経堂のことと思われるが、実際には、大嶽丸の首が納められたという記録は見当たらない。名高い鬼を退治したという説話を藤原氏の権威付けとして利用するために、こう記したのだろう。

 

 さらに、征伐に当たった架空の人物・藤原俊宗の幼名を、坂上田村麻呂を匂わせる田村丸としたのも、辺境の地の平定に尽力して朝廷の威光を高めたその名にあやかりたかったからに他ならない。

 

 また、舞台となった鈴鹿山の立地にも注目したい。この辺り一帯に古くから盗賊が跋扈(ばっこ)していたことは間違いないが、朝廷にとっての要衝でありながらも、その征伐には苦慮していたというのが気になるところ。実質的には、国司といえども手に負えなかったというのが実情であったらしい。史実としてその地の盗賊を退治したとされるのが、鎌倉時代の御家人・山中俊直で、その功績によって山中氏が代々鈴鹿峠の警備を任されるようになったのだとか。

 

 さらに、交通の要所としての鈴鹿峠が官道として整備されたのは、仁和2886)年のこと。天平宝字2758)年生まれで、弘仁2811)年に死没したはずの坂上田村麻呂が、この峠をたどることもあり得ないのである(当時はその西、倉歴の道が主要道であった)。

 

 なお、この説話をもとにしたのかどうかは不明ながらも、鈴鹿峠の北には坂上田村麻呂(田村明神)を祀る田村神社(滋賀県甲賀市)が、峠のすぐ側には、鈴鹿御前と同神と見られる鈴鹿大明神を祀る片山神社(三重県亀山市)が鎮座している。いずれも、その霊験にあやかりたいとの願いが込められて創建、あるいは合祀されたことは想像に難くない。

 

 ちなみに、『鬼滅の刃』に登場する日の呼吸の使い手・継国緑壱(つぎくによりいち)は、鬼となった双子の兄・黒死牟(こくしぼう)との戦いの末、直立したまま息が絶えている。その情景は、まさに坂上田村麻呂の埋葬シーンに重なりそうだ。死後、平安京の守護神としての役割を課された田村麻呂が、甲冑(かっちゅう)姿で立ったまま棺に入れられて埋められたと、まことしやかに語られているからである。ただし、東山山頂にある将軍塚と伝えられるところは、和気清磨呂が桓武天皇に命じられて、都の安泰を願って、土人形に甲冑を着せた将軍像を埋めたところとか。田村磨呂の墓はここではなく、西野山古墳あるいは坂上田村磨呂公墓ではないかとみられている。

 

都の鎮護のために築かれた将軍塚/撮影 藤井勝彦

 

(次回に続く)

 

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藤井勝彦ふじい かつひこ

1955年大阪生まれ。歴史紀行作家・写真家。『日本神話の迷宮』『日本神話の謎を歩く』(天夢人)、『邪馬台国』『三国志合戰事典』『図解三国志』『図解ダーティヒロイン』(新紀元社)、『神々が宿る絶景100』(宝島社)、『写真で見る三国志』『世界遺産 富士山を行く!』『世界の国ぐに ビジュアル事典』(メイツ出版)、『中国の世界遺産』(JTBパブリッシング)など、日本および中国の古代史関連等の書籍を多数出版している。

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