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エリートだった武田勝頼が破滅したのは、父・信玄を超えようとした「傲慢さ」のせい!?

日本史あやしい話9


信玄亡き後を託された勝頼といえば、「武勇に秀でた武将」として将来を嘱望された人であった。しかし、時の移ろいとともに、その期待はやがて失望へと変わり、ついには武田家を滅亡に追い込んでしまう。過信と傲慢さが祟ったものとも考えられそうだが、果たして?


 

■信玄が手塩にかけて育てた名将勝頼

 

武田勝頼(東京都立図書館蔵)

 武田勝頼といえば、いうまでもなく、信玄亡き後を継いだ武田家の御曹司である。もともと四男とあって、跡を継ぐ立場にはなかったものの、長兄・義信が信玄暗殺を企てたとして投獄。次男・信親は盲目で早々に出家、三男・信之は早世していたため、弄さずして後嗣の座が巡ってきたという御仁であった。

 

 後継者としての期待が大きかったことは言うまでもないが、生前の信玄が勝頼を「武勇に優れた武将」として認めていたばかりか、信玄の好敵手であった上杉謙信や徳川家康、織田信長などからも、高い評価を受けていたようである。

 

もちろん、かの諸葛孔明にも比されるほどの名将・信玄が、手塩にかけて育て上げたサラブレッドである。臣下はもとより、領民からも大きな期待が寄せられていたことは、間違いないだろう。

 

■勝頼の過信と焦りが武田軍敗退の一因か

 

 ところが、いざ蓋を開けてみると、その期待は、やがて失望へと変わっていくことになる。武田家の領土を拡大するどころか、ジリジリと勢力を後退させていったからである。

 

決定的だったのは長篠の戦い(1575年)で、劣勢に立たされて臣下から猛反対されていたにもかかわらず、強引に出陣。大方の予想通りの大敗を招いたことが、大きな痛手となった。周囲の期待に何としても応えたかった…との焦りによるものだったとも考えられそうだが、果たして?

 

 さらには、我こそはすでに父をも凌ぐ才能ありと、過信していたことによるものだったかもしれない。才能あるがゆえに、誰もが信じて付いて来てくれると思い込んでいたのも浅はかであった。

 

 長篠の戦いで手痛い敗北を喫して、ようやく外交の重要性に気付いたのか、北条氏政の妹(北条夫人、桂林院殿)を継室に迎え入れたり(正室は遠山直廉の娘で信長の養女・龍勝院。早くに亡くなっていた)、上杉景勝に妹(菊姫)を娶らせて甲越同盟を結んだりと、あの手この手で体制の立て直しに手をつけたものの、時すでに遅しであった。もはやこの時点では、時の流れを止めることなどできなかったのだ。

 

 その後、信玄の婿にあたる木曾義昌や、武田二十四将の一人とまで称えられた穴山梅雪(信君)、小山田信茂らにまで裏切られて手痛い敗北を喫することになるが、それも勝頼の傲慢さに起因するものというべきだろう。

 

 長篠の戦いから7年後の天正12(1582)年、織田・徳川連合軍による甲州征伐によって敗走させられた勝頼が、天目山にまで逃げたところで、嫡男・信勝や正室・北条夫人らと共に自害。この辺りの経緯は、よく知られるところだろう。

 

 ただ、勝頼の三男・勝親だけは、大菩薩峠を越えて摂津国尼崎へと落ち延びたという。それだけは、不幸中の幸いであった。浄土真宗本願寺派の僧侶となって、天和3(1682)年まで生存していたとか。享年103だったというのも、驚くばかりである。

 

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藤井勝彦ふじい かつひこ

1955年大阪生まれ。歴史紀行作家・写真家。『日本神話の迷宮』『日本神話の謎を歩く』(天夢人)、『邪馬台国』『三国志合戰事典』『図解三国志』『図解ダーティヒロイン』(新紀元社)、『神々が宿る絶景100』(宝島社)、『写真で見る三国志』『世界遺産 富士山を行く!』『世界の国ぐに ビジュアル事典』(メイツ出版)、『中国の世界遺産』(JTBパブリッシング)など、日本および中国の古代史関連等の書籍を多数出版している。

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