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難敵「武田信玄」から徳川家康は何を得たのか?

徳川家康の「真実」⑫


徳川家康が武田信玄に「畏敬」の念を抱いていたという話は有名だ。はたして家康は信玄になにを学んだのか?


 

■武田信玄の遺産を自らの組織に活かした徳川家康

 

徳川家康と武田信玄

 

 武田信玄(たけだしんげん)は、元亀3年(1572)10月10日、突如、徳川家康(とくがわいえやす)が領する遠江と三河に同時侵攻を開始したのである。これは、織田信長(おだのぶなが)も察知出来ていなかった。武田軍は瞬(またた)く間に遠江の過半を制圧し、家康の本拠・浜松城(はままつじょう)を包囲する情勢となった。しかも、本国三河は全くの手薄であり、とりわけ東三河は武田軍の別働隊に席巻(せっけん)されるありさまだった。

 

 12月22日、信玄は、浜松城を攻める素振りをみせ、軍勢を接近させたが、途中で三方原(みかたがはら)台地に転進してしまった。家康は信玄の意図が三河攻めにあると判断し、全軍を率いてその後を追った。ところが、信玄は途中でさらに進路を変更し、堀江城(ほりえじょう)を攻める動きを見せたのである。堀江城は、浜名湖水運を押さえる要衝(ようしょう)であった。もし城が陥落すれば、浜名湖水運は、武田の手に落ちてしまう。浜松城の補給を支えていたのは浜名湖水運だったから、堀江城の確保は、徳川の生命線だったわけだ。家康は、信玄の意図を挫(くじ)くべく、決戦に踏み切らざるをえなくなった。そして家康は、三方原合戦で、信玄に大敗を喫した。彼は何度も戦死寸前まで追い詰められたが、家臣たちが身を挺(てい)して彼を浜松城に逃がしたのであった。

 

 信玄との戦いは、家康にとって滅亡寸前に追い込まれたほどの苦難であった。家康にとって幸いなことに、信玄は翌元亀4年4月に急死する。彼の死によって、家康は滅亡の危機から脱した。

 

 だが家康は、その後も信玄の子・武田勝頼(たけだかつより)との9年に及ぶ抗争を強いられた。武田氏との戦いは、家康の立場を大きく変えた。それは、信長の援軍や補給支援なくして戦うことが困難だったからである。そのため、両者の関係は、対等から信長への従属へと変化していったのだ。そして、天正10年(1582)3月、武田氏が滅ぶと、家康は秘かに武田遺臣を自領に匿(かくま)ったのである。本能寺の変後、家康は武田遺臣を大量に召し抱え、軍団の強化に成功しただけでなく、甲斐・信濃の領有を実現し、5ヶ国大名へと成長した。また、天正13年、重臣・石川数正(いしかわかずまさ)が羽柴秀吉(はしばひでよし)のもとへ出奔(しゅっぽん)すると、あらゆる機密が漏洩(ろうえい)したと判断した家康は、武田遺臣に呼びかけ、信玄の軍法など、武田の軍制にかかわる情報を集め、軍事組織の改革を実施したとされる。

 

 そればかりか、武田氏の鉱山開発、金貨の鋳造(ちゅうぞう)、精巧な秤(はかり)の技術などを取り込み、後の江戸幕府の経済政策の基盤にしている。このように家康は、強敵信玄の遺産を引き継ぎ、自らの天下の礎(いしずえ)にしたといえるだろう。

 

監修・文/平山優

(『歴史人』20232月号「徳川家康の真実」より)

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