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「前日に言わないで…!」パワハラ上司・織田信長の要求はいつも突然に


上司からの困った“無茶ぶり”、心当たりのある方も多いのではないでしょうか?約500年前の戦国時代にも、天下統一を目指した織田信長からの“無茶ぶり”に、振り回されていた人物がいたようです。当時の神官・吉田兼見(1535~1610)の日記『兼見卿記』から、その様子をのぞいてみましょう。


 

■戦国の「パワハラ上司」織田信長

 

 織田信長(おだのぶなが)と言えば「パワハラ上司」と言うイメージが一般にはあると思います。決してパワハラ一辺倒な人物だったというわけではないのですが、そうした側面があるのもまた事実。長年仕えていた重臣の佐久間信盛(さくまのぶもり)に対し「折檻状(せっかんじょう)」(お叱りの手紙)を書き「良い手柄は1つもなかった」「思慮もなく未練がましい」「怠慢でけしからん」「卑怯な行為は前代未聞」と罵倒し、ついには追放(天正8年=1580年)してしまったことも、信長の性格のキツさを示すものと言えるかもしれません。

 

 信長としては、信盛の石山本願寺攻めの軟弱な姿勢が気に入らなかったようですが、天正元年のこと(越前の朝倉軍との戦の際、戦機を逃したことを信長が叱ったところ、信盛は反省するどころか、自らの正当性を主張)も持ち出して、信盛を責めていますので、不満が溜まっていたようです。とは言え、信盛としては、まさか自分が折檻状を突きつけられて、解雇されてしまうとは夢にも思っていなかったのではないでしょうか。寝耳に水だったはずです。

 

■信長の要求はいつも突然に

 

 公卿で神道家の吉田兼見(よしだかねみ)も、信長から「寝耳に水」の被害を受けた1人かもしれません。例えば、天正3年(1575)9月24日の兼見の日記『兼見卿記』(かねみきょうき)には、夜半に突然、信長の家臣・村井貞勝(むらいさだかつ)が兼見のもとにやって来たとあります。貞勝は兼見の前で次のように言いました。「明日、信長様(ちなみに兼見は日記には信長と書いています)は、山で鷹狩をされる。この近所じゃ。よって、その時には、茶湯や果子(菓子)を用意して、出てきて欲しい」と。要は、信長を接待せよと言うのです。

 

 兼見は「承知しました」と返答していますが、内心(急だな…)と少し汗ばんだかもしれません。が、翌日(25日)の未明には、茶湯や果子は用意できました。そして、午前8時頃には、一乗寺(山城国愛宕郡)辺で、信長による鷹狩が行われます。ここぞとばかり、兼見は「焼栗・豆アメ・蜜柑・柿・きんとん・塩引(魚の塩漬けか)・山芋」を持参します。

 

 信長にだけ果子を献上したのではありません。勢子(せこ/人夫)にも「焼餅五百」を振る舞ったのです。「五百」という数字は結構なものではないでしょうか。前の日の夜に急に依頼されたのに、これだけの物を提供できるとは、兼見、なかなかの手配人(できる人!)です。昼頃には「赤山」というところで「御茶」がありました。兼見が用意した茶湯が提供されたのでしょう。

 

信長の“無茶ぶり”にも、しっかり応える吉田兼見。(イラスト/nene)

 

 ひと段落ついたところで、兼見は「帰ります」といって、信長のもとから去っています。9月27日には信長から接待の御礼の品を頂きます。それは「雁」(鳥)1羽…。兼見の大盤振る舞いに比べたら、少な過ぎると感じるのは私だけでしょうか。

 

 天正4年(1576)10月18日には、信長の「茶湯座敷庭」に敷く「小石」を用意せよとの命令が兼見にありました。期限はいつまでとは書かれていませんが、兼見は翌日には「小石廿(二十)」を発送しています。さすが、兼見!手際が良い!それにしても急にびっくりするような指示を出してくる「上役」への対応と気苦労は、今も昔も変わりないのかもしれません。

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濱田浩一郎はまだこういちろう

歴史学者、作家。皇學館大学大学院文学研究科国史学専攻、博士後期課程単位取得満期退学。主な著書に『家康クライシスー天下人の危機回避術ー』(ワニブックス)、『北条義時 鎌倉幕府を乗っ取った武将の真実』(星海社)、『「諸行無常」がよく分かる平家物語とその時代』(ベストブック)など。

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