徳川家康の人生において最大の屈辱戦にして最悪の敗北を喫した「三方ヶ原の戦い」とは⁉
今月の歴史人 Part.5
徳川家康の人生において最大の屈辱戦といわれる「三方ヶ原の戦い」。どのような戦いだったのか、ここで改めて紹介する。
■徳川家康自身の自尊心のため無謀な戦いを挑む

三方ヶ原古戦場跡石碑
元亀3年(1572)10月3日、武田信玄(たけだしんげん)は上洛するため、本拠の甲斐(かい)・甲府(山梨県甲府市)を出発した。そして、遠江(とおとうみ)・三河への侵攻を目論み、軍事行動を起こした。
武田の重臣・山県昌景(やまがたまさかげ)は約5000の軍勢を率い、信濃国から東三河に攻め込み、長篠城(ながしのじょう/愛知県新城市)などを攻略した。これにより、家康は窮地に陥り、大いに焦ったに違いない。その勢いでもって、山県勢は遠江国へ向かったのである。
秋山虎繁(あきやまとらしげ)は約2500の軍勢を率いて、居城の高遠城(たかとうじょう/長野県伊那市)を出発すると、遠山氏が籠る岩村城(いわむらじょう/岐阜県恵那市)を攻略した。一方の信玄は、約2万5000の軍勢で信濃国を通過し、遠江国との境にある青崩峠から攻め込んだ。
10月13日、別働部隊を率いた馬場信春(ばばのぶはる)は、徳川方の只来城(ただらいじょう/静岡県浜松市)を落とした。そして、信玄の本隊と馬場氏が目指したのは、二俣城(ふたまたじょう/同)である。
二俣城は、家康の本拠がある浜松城、そして支城となる掛川城(かけがわじょう/静岡県掛川市)、高天神城(たかてんじんじょう/同)を結ぶ中間地点にあった。二俣城は、支城ネットワークを構成する重要な城だったのである。家康は二俣城を守るため、本多忠勝(ほんだただかつ)らを出陣させるが、一言坂(ひとことざか/静岡県磐田市)の戦いで武田軍に敗北した。家康の焦りは、頂点に達しただろう。
勢いを得た武田軍は、そのまま二俣城を攻囲した。二俣城には城代の中根正照(なかねまさてる)以下、約1200の軍勢が籠っていたが、武田方の降伏勧告にも従わず、粘り強く戦った。
しかし、しょせんは多勢に無勢で、しかも天竜川の水の手を断たれたこともあり、12月19日に二俣城は降伏・開城を余儀なくされた。一連の戦いによって、信玄は遠江国北部を制圧したのである。
12月22日、武田方は二俣城を出発し、西へと進路を取った。そして、家康も浜松城を発つと、織田軍の援軍とともに武田方を迎え撃とうとした。家康の軍勢は約1万、武田軍は約2万5000といわれ、戦場となったのが三方ヶ原である。数的に家康は不利だった。
家康はいかに武田軍が多勢とはいえ、素通りさせることはプライドが許さなかった。「合戦は軍勢の数ではなく、天道次第である」と諸将に檄を飛ばしたという。まさしく命懸けの強い覚悟だった。
戦いは午後4時頃にはじまり、2時間余りで武田軍の勝利に終わった。徳川方は2000もの戦死者を出して敗走した。一方の武田方の戦死者は、わずか200余にすぎなかった。徳川方は、夏目広次(なつめひろつぐ)、本多忠真(ほんだただざね)、鳥居忠広(とりいただひろ)など、多くの有力な家臣を失い大打撃を受けたのである。