徳川家康と武田信玄の遠江をめぐるせめぎ合い─同盟と裏切りと上杉─
徳川家康の「真実」⑧
徳川家康は領国を接する武田信玄に常におびやかされていた。家康が領した遠江は武田とのせめぎ合いが頻発していた地域であった。
■武田の遠江侵攻に疑念を抱く徳川家康は上杉との同盟を模索

武田信玄 東京都立中央図書館蔵
武田信玄は駿河侵攻に伴い、北条氏に今川氏との手切れを伝えて理解を求めたが叶わなかった
甲斐国(かいのくに)の武田氏と駿河国(するがのくに)の今川氏は同盟を結んでいたが、遠江国(とおとうみのくに)の国衆が今川に叛(そむ)くなど混乱状態となったことにより、武田信玄(たけだしんげん)に今川領に対する野心が生まれる(今川義元/よしもと/の娘は、信玄の嫡男・義信/よしのぶ/の正室だった)。信玄は永禄8年(1565)に、織田信長とも同盟を結ぶことになる。信玄の四男・武田勝頼(たけだかつより)が、信長の養女と結婚したのだ。
だが、このことは、武田家の内部に亀裂を生む。今川氏との同盟を重視する義信派の家臣が、信玄に反旗を翻そうとしたのだ。この陰謀は露見し、義信派の重臣・飯富虎昌(おぶとらまさ)は処刑。義信は東光寺(甲府市)に幽閉され、永禄10年に病死した。
この「義信事件」は、今川氏真(いまがわうじざね)に武田氏への疑念を生じさせた。氏真は、信玄の宿敵とも言うべき、越後の上杉謙信(うえすぎけんしん)に使者を送り、同盟を結ぼうとする。
しかし、この今川の動きは、信玄に察知されることになる。永禄11年12月6日、信玄は今川氏との同盟を破り、駿河に攻め入る。それと同時に、家康も遠江に侵攻することになる。これは、侵攻前に家康と信玄が同盟を結んでいたことを意味する。信玄は武田軍が駿河に攻め入れば、今川と同盟関係にある後北条氏がこれを支援すると考えていた。よって、信玄は信長を通して家康に働きかけて、同時侵攻を提案したのではないか。
永禄11年は、信長にとっても正念場で、足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて、上洛せんとしていた。上洛戦の最中に今川に背後を衝かれることは避けたかった。信長はそのような意図もあり、信玄の駿河侵攻を認めたのである。侵攻の前には、武田・徳川間で「密約」があったとされる(武田と徳川がいつ同盟を結んだかは定かではないが、永禄11年中、同年12月以前であることは間違いないであろう)。
それは、同時に今川領国に侵攻すること、大井川を境にして、駿河は武田が、遠江は徳川が領有すること。ただし「切り取り次第」であること。こうした密約を結び、永禄11年12月6日、信玄は駿河に侵攻する。今川氏真は戦おうとするが、武田の調略により、今川家臣らは戦線離脱。大した抵抗もなく、武田軍は駿府に入る(12月13日)。氏真は駿府から懸川城(掛川市)に逃れた。しかし、今川と同盟関係にあった小田原の後北条氏が出陣してきたために、信玄の駿河侵攻の動きは鈍る。
家康は三河を出陣し、12月13日には遠江国に攻め入った。遠江の国衆らは続々と家康に帰順した。事前の調略も功を奏した。遠江中部の高天神城(たかてんじんじょう/掛川市)の小笠原氏も家康に降った。
家康の遠江侵攻は、信玄と比べて、順調に進むが、トラブルも起きた。武田重臣・秋山虎繁(あきやまとらしげ)の率いる伊那衆(いなしゅう)が、信濃伊那より遠江国に攻め込んできたのだ。これに家康は怒り、信玄に抗議。信玄は秋山軍を駿府に引き揚げさせた。武田軍の行為に家康は不信感を抱いたとも言う。
今川氏真が拠る懸川城攻めは、永禄12年の1月中旬から始まるが、北条氏の援軍と今川方の奮戦もあり、徳川方は城攻めに苦慮する。同年3月、家康は氏真との和睦を模索し、5月中旬、ついに城は開城された。今川氏真は沼津に落ち延び、ここに戦国大名としての今川氏は滅亡することとなった。
元亀元年(1570)10月には、徳川・上杉の同盟が成立する。家康は信玄と断交することを上杉に誓う。そして、信長と謙信が懇意になるよう、家康が仲介することを約束。武田と織田の縁組が破談になるよう、信長を諌めるとまで家康は言う。家康が武田家と手を切ったのは、前述の秋山虎繁率いる伊那衆の遠江侵攻が原因だと言われている。
かつて、信玄は、家康宛ての書状(1569年1月8日付)で「秋山虎繁以下の信州衆が、遠江に在陣していること、これをもって、我らが遠江国を狙っているとお疑いのようですね。早々に秋山をはじめとする下伊那衆を我が陣(駿府)に招くことにしましょう」と述べている。
これは、家康の抗議により、出された文書である。前年12月22日に信玄が家康に出した書状で、信玄は、家康の遠江侵攻を満足としながらも、自身も遠江に向けて進軍することを述べている。信玄と家康の駿河・遠江侵攻に先立って、両者の間には、大井川を境として、駿河は信玄、遠江は家康との約束があったとされる(一方、駿河・遠江ともに武田と徳川の切り取り次第とする密約があったとする説もある)。その約束があったからこそ、家康は信玄に疑心を抱き、抗議することができたし、信玄も抗議を受け入れたのではないか。
家康の機先を制し、遠江(とおとうみ)に勢力を浸透させたかった信玄であるが、家康の順調な遠江経略と、後北条氏との戦いにより、その目論みは潰えた。それどころか、性急な遠江への軍事侵攻が、家康の疑心を招き、同盟関係に暗い影を落とすことになる。

今川氏真
1568年12月6日、武田軍が駿河侵攻を開始し今川氏真居城の駿府を攻撃。氏真は掛川城へ逃れる。(国立国会図書館蔵)
監修・文/濱田浩一郎