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徳川家康は寅年、寅の日、寅の刻生まれではなかった!?【家康の新説】

徳川家康の「真実」⑥


天下人・徳川家康について、現在も研究がすすめられ、様々な史実についての新説が唱えられている。ここではそのなかでも、幼いころに出来事についての新説を紹介する。


 

【新説】寅年、寅の日、寅の刻生まれではなかった

 

■「天下人」としての権威づけの可能性

 

家康産湯の井戸
岡崎城で誕生した家康の産湯として、この井戸の水が用いられたと伝わる。現在の松平東照宮内にあり、敷地内にはかつて松平家の屋敷があった。

 

 徳川家康は、天文11年12月26日寅の刻(とらのこく/午前4時頃)、三河国岡崎城で誕生した。この年は寅年で、しかも26日は寅の日にあたり、さらに寅の刻に生まれたことから、家康は「三寅(みとら)の福(ふく)」に恵まれていたといわれる。ところが、よく調べてみると、家康はその生前から自分の生年を操作していた可能性がある。

 

 まず誕生日について、家康が征夷大将軍に就任した慶長8年(1603)12月26日に、京都・相国寺(そうこくじ)などでは「将軍正生誕」(将軍の誕生日)として祈祷(きとう)を行っている。このことからこの日が家康の誕生日であったことは間違いなかろう。

 

 問題は生年である。家康死去の際、以心崇伝(いしんすうでん)らは行年(ぎょうねん)75と記しており、逆算すると通説どおり、天文11年生まれとなる。ところが、慶長8年2月、征夷大将軍就任に際し、家康は無病息災・延命長寿を祈願する願文を書いた。家康の自署もあるこの願文に「六十一歳癸卯年」とあり、数えで61歳(還暦)を意味する。さすれば生年は、天文12年となり、通説より1年遅くなる。

 

 恐らく家康は、将軍就任後に自分の生年を寅年とし、天下人としての権威づけを行ったのであろう。

 

【新説】今川方へ向かう途中で戸田宗光に拉致されていなかった

 

■新史料の発見により広忠の降伏が発覚

 

 天文16年(1547)、竹千代(以下家康)は、父松平広忠の決断により、今川氏のもとへ人質として送られることになった。当時松平氏は、織田信秀の攻勢を受け、危機的状況にあり、今川を頼るしかなかったからだ。当時6歳の家康は、岡崎から三河湾に出て、田原(たはら)から陸路、駿府に向かおうとしていたところ、戸田宗光(とだむねみつ)に裏切られ、尾張織田氏のもとへ送られてしまった。戸田は、家康を永楽銭千貫文(えいらくせんせんかんもん/百貫文とも)で売り渡したのだという。この逸話はとても有名だ。

 

 ところがこれは事実ではない。新史料の発見により、天文16年、松平広忠は織田信秀に攻められて降伏していたことが明らかとなったのだ。家康が織田に人質として預けられたのは、この時のことと推定されている。だがまもなく広忠は今川氏に従属した。当然、家康の生命は危うかったのだが、織田氏は彼を殺害せず、対今川・松平外交の切り札にしようとしたのだろう。

 

 天文18年3月、松平広忠が死去すると、今川氏はその後継者家康の奪還(だっかん)を目指し、安城城(あんじょうじょう)を攻略。城将織田信広(のぶひろ/信秀の庶子)を捕らえ、信広との交換で家康の身柄を無事に確保したのであった。

 

監修・文/平山優

(『歴史人』20232月号「徳川家康の真実」より)

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