赤壁の戦いで「火攻め」の策を立てたのは、周瑜でも諸葛孔明でもなかった!
ここからはじめる! 三国志入門 第77回
西暦208年、数万の孫権(そんけん)と劉備(りゅうび)の連合軍が80万と号す曹操軍を撃退した「赤壁(せきへき)の戦い」。この立役者といえば孫権軍の司令官・周瑜(しゅうゆ)と魯粛(ろしゅく)などの名が挙がるだろう。しかし最大の功労者は誰かといえば、周瑜の部下・黄蓋(こうがい)に他ならない。後世「苦肉(くにく)の計」と語り継がれるその活躍は、どこまで真実だったのか。
■努力の人が、孫家三代に仕える文武の良将へ

湖北省「赤壁古戦場」にある黄蓋の像。撮影/上永哲矢
黄蓋の生まれは荊州(けいしゅう)南部の零陵(れいりょう)。現在の中国・湖南省の最南に位置する都市だ。早くに父を亡くし、困窮したと思われるが、薪(たきぎ)を拾い集めて生計を立て勉学に励み、やがて役人になった。
そして西暦180年代半ば、孫子(そんし)の末裔と呼ばれた孫堅(そんけん)が荊州南部の太守として赴任。以来、黄蓋は軍に身を投じる。やがて孫堅が死に、孫策から孫権へとその事業は引き継がれていく。かくして程普(ていふ)や韓当(かんとう)とともに、孫家三代に仕える宿老となった。
黄蓋は威厳に満ちた風貌ながら政治家的な一面もあり、民や兵から畏怖され、また慕われた。役人たちに不正があると決まって黄蓋が派遣され、わが国の「大岡裁き」を思わせる冴えを見せて解決する。そんな調子で、黄蓋が治めた県は9つにも及んだという。
さて208年、大陸北部を制した曹操が南下。孫権軍はわずか数万。いっぽう80万と号する曹操軍は長江の北岸に大船団を留め、孫権軍に圧力をかけ続けた。数の上で圧倒的不利な孫権軍が勝利するとしたら奇策以外にない。
この状況を打破したのが、誰あろう黄蓋だった。「可燒而走也」。つまり、曹操軍の船は密集しています。火攻めをかければ敗走させられましょうと、総指揮官の周瑜にそう進言したのである。さらに黄蓋は、みずから囮(おとり)になると申し出た。許可をとりつけた黄蓋は、曹操に偽りの降伏を願う書状を送る。
機を見て、一群の船団を率いて出発した黄蓋。かたや曹操軍は「見ろ、黄蓋が投降してくるぞ」と大いに喜ぶ。宿老・黄蓋の投降は願ったりかなったり。すっかり降伏を信じ、迎え入れようと指をさして言い合った。
黄蓋は好機と見るや、薪と草を詰め込んだ快速船を前に出して火を放つ。かくして炎の塊となった快速船が突っ込むと、火はたちまち燃え広がり、密集隊形にあった曹操軍の船団を焼き尽くす。孫権軍の完全勝利であった。
■「演義」の見事な脚色が後世に広く名を残さしめる

曹操を欺くため、鞭(棒)で打たれる黄蓋
以上の筋書きは正史『三国志』の周瑜伝にあるとおりだ。しかし、小説『三国志演義』ではさらにドラマチックに脚色されている。黄蓋は曹操に投降する前、わざと周瑜と仲違いして棒打ちの刑を受けるのだ。わが身を犠牲にして敵を欺く、この故事は「苦肉の計(策)」として後世に伝わった。
ただ、「火攻め」については周瑜と諸葛亮がともに思い立ち、手のひらに「火」の字を書いて見せ合う形となり、黄蓋の提案は少し後に回されている。「苦肉の計」は創作ながら、苦労人かつ人情家・民政家としての一面も持つ黄蓋らしい名エピソードといえよう。
黄蓋は船団の先頭で指揮をとっていたが、敵の矢を受けて河へ落ちた。兵たちに救い上げられるも、敵勢が殺到する修羅場を迎え、そのまま便所に放置される。黄蓋は必死に呼び、同僚の韓当に救い出された。
赤壁大戦後、黄蓋は武鋒中郎将(ぶほうちゅうろうしょう)に任命。武陵(ぶりょう)郡、長沙(ちょうさ)郡の反乱鎮圧の任にあたった。以後は魏や蜀との戦闘など表舞台に立つことはなく、没年もはっきりしない。功績の大きさを見ると、もう少し出世してほしかったように思えるが、その控えめな最期もまことに彼らしい。