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曹操に敗れた袁紹は、なぜ軍師たちの助言を無視したのか?

ここからはじめる! 三国志入門 第76回


『三国志』の時代、覇権をめざす曹操(そうそう)の前に立ちはだかったのが、華北(かほく)に強大な勢力を誇る袁紹(えんしょう)である。袁紹は配下に有能な人傑を何人も抱え、なかでも軍師の田豊(でんぽう)、沮授(そじゅ)は同時代を代表する知恵者であった。だが結局、袁紹は彼らの助言を退けて敗れてしまう。一体、なにが原因だったのか。


 

袁紹を支配者に押し上げた恩人たち

官渡古戦場(河南省鄭州市)に描かれた袁紹の絵/撮影:上永哲矢

 どんなに優れた才能があっても、それを生かす術がなくては宝の持ち腐れとなる――。三国志の時代において、その言葉を痛いほどに感じさせてくれるのが、袁紹に仕えた田豊や、沮授といった幕僚たちだ。

 

 田豊は若いころ、都の洛陽の役人だった。博学多才で有能ぶりはつとに評判だったが、後漢の朝廷は腐敗する一方。醜い権力抗争に嫌気がさした彼は、北方にある故郷の冀州(きしゅう)へ帰る。世が世なら地方役人として一生涯を終えたかもしれないが、乱世は彼の運命の歯車を大きく動かす。

 

 各地に群雄が割拠すると、袁紹が冀州の新たな支配者となった。その立役者が誰あろう田豊である。彼は旧統治者、韓馥(かんふく)に見切りをつけ、実権を奪い、追放に追い込む手助けをしたのだ。また沮授は、韓馥の配下にいたが、このときに袁紹に鞍替えを余儀なくされている。

 

 いわば、袁紹にとって田豊は恩人。田豊のほうも袁紹の威厳に満ちた容姿から次代を担わせるにふわさしい人物だと確信したのかもしれない。以後、両者は君臣として大勢力を築き上げていく。

 

 西暦195年ごろ、漢の皇帝(献帝)が荒れ果てた長安を脱したとの知らせが入る。田豊は「またとない機会」と、ただちに献帝の保護を袁紹に勧めたが、袁紹は動かなかった。ただ、すでに漢は滅亡の危機に瀕しており、見限っても仕方なかった。

 

 だが、そこで新興勢力として台頭していた曹操が、荀彧(じゅんいく)の進言で献帝を保護する。かくして献帝を助け「漢」の忠臣であろうとした曹操に対し、袁紹は「漢」への忠誠心は希薄で、つまり見捨てたということになる。完全に出し抜かれた格好であり、これを機に袁紹と曹操は対立する。

 

 田豊は許都(きょと)を襲撃して献帝の奪取を進言したが、袁紹は受け入れない。たしかに許都を攻めれば、見方によっては献帝に弓を引くことになるから、ためらうのも仕方ない。しかし、結果的には袁紹は曹操と戦う羽目になった。

 

 5年後の200年、中原の覇権の座を競い、両者はいよいよ直接対決の時を迎える(官渡の戦い)。序盤で劉備が曹操領の南方を撹乱すると、田豊は「いまこそ背後を突きましょう」と進言した。だが、出陣の準備中に袁紹の息子が病気にかかる。出陣前の不吉を理由に袁紹は出陣を取りやめてしまった。

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上永哲矢うえなが てつや

歴史著述家・紀行作家。神奈川県出身。日本の歴史および「三国志」をはじめとする中国史の記事を多数手がけ、日本全国や中国各地や台湾の現地取材も精力的に行なう。著書に『三国志 その終わりと始まり』(三栄)、『戦国武将を癒やした温泉』(天夢人/山と渓谷社)、共著に『密教の聖地 高野山 その聖地に眠る偉人たち』(三栄)など。

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