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諸葛孔明のライバルとして有名な周瑜は、一度も「美周郎」とは呼ばれていなかった?

ここからはじめる! 三国志入門 第71回


三国志を題材にした映画『レッドクリフ』(2008年)で、実質的な主人公として描かれた周瑜(しゅうゆ/175210年)。赤壁(せきへき)の戦いを勝利に導いた孫権(そんけん)軍の指揮官で、音楽にも精通した文化人だ。容姿端麗ともいわれ「美周郎」と呼び親しむ人も多い。ところが、そのあだ名やイメージは最初からあったものではなかった。今回はなぜ、それらがファンの間に定着したのかを解説したい。


「容貌が立派」ではあるが「美」とは描かれていなかった

NHK「人形劇 三国志」で使用された周瑜の人形(川本喜八郎製作/飯田市川本喜八郎人形美術館所蔵)

 正史でも、物語『三国志演義』でも、周瑜のデビューは実に華麗だ。名門・周家の御曹司(おんぞうし)である彼は、義兄の孫策(そんさく)が旗揚げしたと聞くや、兵を率いて颯爽と馳せ参じる。2人は幼なじみで、断金(だんきん=金属も断ち切る)の交わりを結んだ仲だった。のちに江東地方の美人姉妹、大喬(だいきょう)を孫策が、小喬(しょうきょう)を周瑜が妻に迎え、本当の義兄弟にまでなる。

 

 周瑜は義兄・孫策の期待に応えて軍才を発揮し、孫策の勢力拡大に貢献する。正史では「瑜長壮有姿貌」(長じて立派な容貌になった)と周瑜の容貌を記し、呉の人々はみな彼を「周郎」と呼び称えたとも書き添える。

 

 さらには、周瑜は音楽に精通していたとも紹介される。「演奏に間違いがあると周郎が振り向くぞ」と噂されたエピソードは「演義」にも流用される。まさしく完全無欠のイケメンを連想させるが、注意したいのは「美」とは一言も書かれていないことだ。

 

 正史の表記では「容貌が立派な周郎」であって「美周郎」ではない。固定概念で、ついそう思いたくなるが、少なくとも生前に「美周郎」と呼ばれたことはなかったのではないか。

 

 1000年後に成立した小説『三国志演義』ではどうか。第15回で周瑜が旗揚げした孫策のもとへやってくるのは史実どおりで、そこに「姿質風流、儀容秀麗」(風流で秀麗)と彼の容貌が紹介される。「三国志」の物語が語り継がれるなかで、周瑜はすっかり「イケメン」化していったに違いない。

 

「演義」の周瑜といえば、激怒のあまり吐血するシーンもあるなど、いつも諸葛亮にやり込められる損な役回りだ。その一方で、デビューしたばかりの諸葛亮の「好敵手」にふさわしい風采(ふうさい)と才覚(さいかく)を併せ持っている。「悔しさに顔をゆがめるイケメン」扱いなのは救いといえようか。

 

 ただし、ここでも「美周郎」のあだ名は出てこない。中国発の「演義」には美周郎は無いことは覚えておきたい。

 

 そして『三国志演義』は江戸時代の日本に入ってきた。しかし、それを読んだ日本人の画家は、どうやら周瑜を色男とは捉えなかったようだ。

『絵本通俗三国志』に描かれる周瑜と諸葛亮(葛飾戴斗・画)

 当時、大流行した『絵本通俗三国志』の挿絵に描かれた周瑜の姿は、美周郎どころかヒゲ面で厳めしい。同じヒゲ面でも、どこか飄々とした雰囲気がある諸葛孔明(しょかつこうめい)とは対照的だ。もっとも、同書ではほとんどの人物が同じような姿に描かれ、名前がなければ見分けがつかない。三国志に限らず当時の軍記物の絵は似たようなものだ。

 

(次ページ/では、周瑜を容姿端麗に描いたのは誰か?)

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上永哲矢うえなが てつや

歴史著述家・紀行作家。神奈川県出身。日本の歴史および「三国志」をはじめとする中国史の記事を多数手がけ、日本全国や中国各地や台湾の現地取材も精力的に行なう。著書に『三国志 その終わりと始まり』(三栄)、『戦国武将を癒やした温泉』(天夢人/山と渓谷社)、共著に『密教の聖地 高野山 その聖地に眠る偉人たち』(三栄)など。

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