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諸葛亮も学んだ?「張遼より強い」と評された曹仁の戦法

ここからはじめる! 三国志入門 第69回


曹仁(そうじん/168223)と聞くと、『三国志演義』で諸葛亮(孔明)や徐庶(じょしょ)に翻弄される、「やられ役」の武将を思い浮かべる方もいるだろう。しかし、正史の記述から彼は「最強」の評価も与えられる名将である。このギャップは、なぜ生まれたのか? その評価の理由や、後世への影響なども探ってみたい。


 

1000人の若者を引き連れて曹操のもとに参集

「演義」では不覚をとる場面も多いが、曹操軍を代表する存在として出番も多い曹仁。(三国志演義連環画より)

 曹仁は、曹操より13歳年下の従弟である。夏侯惇(かこうとん)や曹洪(そうこう)と同じ血縁武将で、曹操に終生忠節を尽くした将だ。若いころはやんちゃで、ロクに家にも帰らなかった。そのため弟の曹純(じゅん)が家督を継いだという。だが「三国志」において、この手の人物は得てして出世する。曹仁もその1人であった。

 

 曹操の旗揚げからしばらくして、曹仁は1000人の若者を引き連れて馳せ参じたという。のっけからの「千人隊長」だ。

 

 武勇といい人望といい、周囲から一目置かれる逸材だったとみられる。200年の官渡の戦いでは将才を発揮し、袁紹(えんしょう)軍の別動隊を率いる劉備を退けている。205年の壺関(こかん)の戦いでは城を完全包囲した曹操に「必死の敵には敢えて退路を示すべき」とアドバイスして開城させた。

 

 歳を経るにつれ、曹仁の軍才には磨きがかかっていく。208年、曹操は「赤壁(せきへき)の戦い」に敗れると、前線拠点の江陵(こうりょう)を曹仁に守らせた。血縁の夏侯淵、曹洪でもなく曹仁に守らせたあたり、信頼ぶりがうかがえよう。

 

「天上人」と称えられる猛将ぶりを発揮

 

 はたして、勝利に乗じた周瑜(しゅうゆ)の軍勢数万が荊州に攻め寄せる。緒戦で部隊長の牛金(ぎゅうきん)以下、300人の兵が城外で敵に包囲されて絶体絶命となると、曹仁は「馬を引けい!」と叫ぶや突撃をかける。側近の制止もふりきって数十人の精鋭とともに敵の包囲網に突き入ったのだ。見事に囲みを解いて味方を救った曹仁。まだ脱出できていない兵がいると知るや、取って返して救出する。犠牲になったのはわずか数人だった。

 

「将軍こそ真の天上人だ」、帰還後に側近のひとりが、こう漏らした。1年後、曹仁は江陵から撤退したが、敵将・周瑜はこの戦いで矢傷を負い、翌年に世を去る。周瑜を事実上、死に追いやった曹仁の武名は天下に轟いたことだろう。

 

 219年、曹仁がさらに真価を発揮した戦いがあった。荊州北部、樊城(はんじょう)籠城戦である。劉備軍や孫権軍との国境、天下三分の最前線ともいえる重要拠点をまたも預かっていたのだ。

 

 しかし、攻め寄せる関羽は劉備軍第一の将。そのうえ援軍に来た于禁(うきん)は、川の増水で満足に戦えず関羽に降伏。猛将の龐徳(ほうとく)も斬られてしまった。

 

 城が水没して補給も断たれ、関羽の水軍に完全包囲されるなか、数千の城兵は飢えに悩まされた。それでも誰1人、裏切らなかったというのが曹仁の将器を示す。

 

 そうして粘るうちに、援軍第二陣の徐晃(じょこう)が到着して関羽軍を攻撃。好機と見た曹仁は城外に討って出て、関羽を見事に退けたのである。その後、呉将・呂蒙(りょもう)に退路を断たれた関羽は孫権に処刑された。

 

 戦上手の劉備を退け、周瑜や関羽といった名将を事実上、死に追いやった男。その軍功は曹操軍屈指といえた。

 

 三国時代~晋の政治家・傅玄(ふげん)は『傳子』(ふし)において「(曹仁は)古代の勇士にひけをとらない。張遼は曹仁に次ぐ」と評している。張遼も正史においては無双ゆえ、曹一族への配慮があったにせよ「最強」とみられていたと考えて良いだろう。

 

曹仁が駆使する「八門金鎖」とは何だったのか?

 

 それだけに小説『三国志演義』で、徐庶や諸葛亮に翻弄される役回りは憐れである。しかし見方を変えれば彼の名将ぶりが、後世にも伝わっていたことの証左でもあろう。

 

 たとえば「演義」で、曹仁は徐庶との戦いで「八門金鎖(はちもんきんさ)の陣」を布く。「これを破れるものなら破ってみよ」と知恵比べを挑むのだ。それまでの物語になかった強そうな名前の陣形は、読む側にインパクトを与える。

 

 物語上では徐庶と趙雲(ちょううん)にあっさり弱点を破られてしまうが、裏を返せば名将・曹仁の陣を破る徐庶や趙雲の凄さが、それだけ際立つということでもある。「歪んだ好待遇」といえようか。

 

 この「八門金鎖の陣」とは何なのか。それは陣形に八つの入口を設け、吉とされる生門・開門・景門の3つ以外から入ると、大損害を受けるか全滅する陣と説明される。中国では「奇門遁甲」(きもんとんこう)という式占(しきせん)の一種が、古代から信じられる。八つの方角で吉凶が占われる「八卦」(はっけ)という易占にも通じる考えである。

 

 実際に『三国志演義』では、諸葛亮が石兵八陣(せきへいはちじん)に陸遜(りくそん)を迷い込ませたり、司馬懿(しばい)との戦いでは、映画『レッドクリフ』にも出てきた「八卦の陣」を駆使する場面がある。

 

 ただし、この諸葛亮の兵法は決して「演義」の創作とも言いきれない。正史「諸葛亮伝」には、彼が「八陣の図を作った」とはっきり記されているし、三国時代の後の『宋書』や『晋書』には、諸葛亮が残したという陣や用兵の記述がある。

 

 とくに『晋書』には司馬昭(しばしょう)が、側近にその研究を命じたというから当時も相応の評価を得ていたのではないか。

 

……と、なんだか諸葛亮を持ち上げる羽目になってしまったが、要するに「演義」では、孔明が登場するより前に、早くも見事な陣形を駆使してみせる曹仁は、それまでの将軍と違って明らかに異質。なにやら名将の匂いを感じさせる存在だ。そして赤壁の戦い以後、周瑜や関羽を苦戦させる荊州防衛戦は、正史も演義もさほど変わりなく描かれる。

 

 正史では、諸葛亮と曹仁が対陣・交戦するような局面はない。「八門金鎖の陣」も作り話だ。

 

 よって想像になるが、曹仁のような当代の敵将たちの戦法を諸葛亮は見聞して学び、それを自身も生かして後世に伝えたという経緯があった、などと思ってみたくなる。それが時を経た「演義」における曹仁の「歪んだ好待遇」への布石というのは考え過ぎだろうか。

 

 攻撃より守勢、地味ながら欠かせぬ存在で「最強」の名声まで手に入れた曹仁。彼なくしては曹操も枕を高くして眠れなかったことであろう。「演義」前半での扱いは可哀そうだが「天上人」となった彼であれば、それを知っても苦笑いする程度かもしれない。

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上永哲矢うえなが てつや

歴史著述家・紀行作家。神奈川県出身。日本の歴史および「三国志」をはじめとする中国史の記事を多数手がけ、日本全国や中国各地や台湾の現地取材も精力的に行なう。著書に『三国志 その終わりと始まり』(三栄)、『戦国武将を癒やした温泉』(天夢人/山と渓谷社)、共著に『密教の聖地 高野山 その聖地に眠る偉人たち』(三栄)など。

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