孫策との一騎討ち、曹操からもスカウトされた逸材。太史慈の謎めいた「遺言」の意味とは?
ここからはじめる! 三国志入門 第65回
太史慈(たいしじ/166~206)といえば、三国の一角・呉の基礎を築いた孫策(そんさく)と名勝負を演じた武将として知られる。今回は、その太史慈の生涯や、彼が発したとされる意味深な言葉について掘り下げてみたい。

格闘漫画のように、孫策と取っ組み合う太史慈(下)。三国志演義連環画より
太史慈は、中国の山東半島。今はビールで有名な青島(チンタオ)の近く、青州・東莱(とうらい)郡の出身だ。美髯(びぜん)で身の丈七尺七寸(180cm弱)の偉丈夫。弓の腕は百発百中。山賊の砦を攻めたとき、賊徒の手の甲を柱ごと射抜くという、あの呂布にも匹敵しそうな芸当をやってのけた。
■敵を欺いて、劉備に救援を頼みにいく
もともと文官あがりの知恵者でもあった。山東地域を支配していた孔融(こうゆう)に仕えていたとき、城が黄巾(こうきん)軍の残党に包囲されてしまう。「劉備に援軍を頼もう」ということになり、太史慈がその使者に立ったが、包囲は厳しい。そこで一計を案じ、城から出ては弓の練習だけして戻るという行為を繰り返して敵の油断を誘う。
そして3日目の朝、敵が反応しなくなったのを見るや、勢いよく馬を駆って包囲を突破した。どこかイソップ寓話の「オオカミ少年」(嘘をつく子供)や、西周の王を虜にした「褒姒(ほうじ)の笑み」を思わせる逸話だ。ともかくも平原相を務めていた劉備と面会し、三千の援兵をえて孔融の窮地を救ったのである。
ちなみに、太史慈と劉備の関わりはこれきり。もし、劉備に仕えていたらどうなっていたか。そのまま華北に留まっていれば、そんな機会があったかもしれないが、太史慈は孔融を見限って長江を渡り、南方へ向かってしまうのだ。同郷出身者で揚州刺史(州の長官)を務める劉繇(りゅうよう)に仕えるためであった。
しかし、劉繇は「太史慈を使ったりしたら、許劭(きょしょう)殿に笑われないだろうか」と彼を警戒する。太史慈が若い頃に役所で問題を起こしていたこと、孔融を見限ってきたことがマイナス評価だったのかもしれない。許劭とは高名な人物批評家で、かつて曹操を「治世の能臣、乱世の奸雄」と評した人だ。このとき戦乱を避けて劉繇に身を寄せていた。このこともあって結局、太史慈は偵察任務を与えられるだけにとどまる。
■走れメロスのモデル? 孫策との熱き友情
太史慈は仕方なく前線へ偵察に出た。出向いた先の神亭(しんてい)で、なんと敵方の大将・孫策にバッタリ遭遇。すぐさま打ちかかると、孫策も真正面から応じた。一対一で戦い、互いの武器と兜を奪いあって引き分けた。このとき太史慈30歳、孫策21歳。正史『三国志』で名のある者同士の一騎打ちは極めてレアで、その戦闘描写が仔細に描かれているのは、この2人の勝負だけだ。
その後、孫策は劉繇を打ち破った。太史慈は途中まで劉繇と一緒に逃げていたが、途中で彼を見捨てて離れ「おれが丹楊(たんよう)太守だ」と称し、なおも孫策にあらがう。実力者の彼のもとには、孫策に服さない者らが多数集まったという。しかし、やがては太史慈も孫策の軍門にくだった。
「もし、あの神亭での決闘のとき、お前が俺を捕えていたら、どうしていた?」と尋ねる孫策に「さあ、想像もつきません」と太史慈。力を認め合った男同士のやりとりは、まことに興味深い。
その後、敗軍の将・劉繇が亡命先で病死。行き場を失った兵1万人あまりを太史慈が引き取りに行くと言った。孫策の側近は「彼を行かせれば、もう帰ってこないでしょう」と、口をそろえたが、孫策は疑いもせず門外まで見送る。「六十日たらずで」といい置いて去った太史慈は、その言葉通り兵を連れて孫策のもとへ戻ってきた。
この故事だが『呉歴』では、さらにドラマチックな描写がなされる。約束の日に孫策が酒食を準備し、竿を立て、その影を日時計にして太史慈の帰りを待ったとあるのだ。これなど、太宰治が『走れメロス』のモデルのヒントにしたのでは、と思いたくなるような逸話。太史慈伝には、こんな少年漫画にも似たロマン描写がある。
■唐突に発せられた、最期の言葉の意味とは?
その後、孫策から西の前線・建昌(けんしょう)の都尉(とい)に任じられた太史慈は、劉表軍の猛攻をよく防いだ。だが、正史における彼の活躍はこれで終わる。主君・孫策が5年後(西暦200年)に急死し、太史慈もその6年後に、ひっそりと世を去るのだ(41歳)。あれだけ盛り上げたのに、なんとも味気なさすぎるが、彼が臨終のさいに発した言葉が『呉書』にある。
「大丈夫たるもの、世に生きては七尺の剣を帯びて天子の階(きざはし)を昇(のぼ)るべきものを、まだその志が実現できぬうちに死ぬことになろうとは・・・」
これまた唐突である。受け取りようによっては彼自身が「天子の階に昇る」、つまり帝位につくことを望んでいた、というように読める。そんなに大それた野望を抱いていたのか。
そのヒントが、正史『三国志』呉志における太史慈の序列だ。彼の列伝は「呉主(孫権)伝」など帝王の伝のすぐ後ろにある。劉繇、士燮(ししょう)といった一地方の群雄と、ひとまとめになっているのだ。その後に続くのが張昭(ちょうしょう)、諸葛瑾(しょかつきん)などの宿老。周瑜(しゅうゆ)、程普(ていふ)、黄蓋(こうがい)といった忠臣たちの列伝でさえ、もっと後ろのほう。完全に別格扱いである。
孫権の代、太史慈は同じ列伝にいる劉繇などと同様の「旧世代の独立勢力」として扱われたのかもしれない。彼は黄蓋などの呉将たちと交流した形跡がなく、孫権が太史慈に言葉をかけたような描写も見あたらない。かつて「おれが丹楊太守だ」と称したように、ゆくゆくは都へ攻め上ろうという野心があって警戒されたのか。孫策のの急逝で抜け殻のようになってしまっていたのか。
生前、曹操が太史慈をスカウトしている。彼が青州の出身であることに目をつけたのだろう。「当帰」という薬草だけを箱に入れて送った。「当方(北)へ帰ってこい」と、曹操らしい謎かけである。その時期は不明だが、孫策没後、居場所のなくなった彼に誘いをかけたのかもしれない。だが太史慈は北へ帰らず南にとどまった。やはり、亡主・孫策への思いがあったとみるべきか。
なお『三国志演義』では、太史慈は史実より3年ほど長命する。前半生の活躍も、ほぼそのまま描かれ「赤壁の戦い」でも活躍。翌年の曹操軍との合戦中、張遼(ちょうりょう)の策にはまって矢を浴びてしまい、孫権にその死を悼まれる。正史での唐突な死が惜しまれたのか、甘寧(かんねい)や周泰(しゅうたい)に並ぶ呉の武闘派として相応の存在感を見せる「演義」の呉将としては異例の厚遇である。