関羽・呂布を超えた名将、魏の張遼と徐晃の最期は、なぜ改悪された?
ここからはじめる! 三国志入門 第63回
正史『三国志』の「魏書」で、著者の陳寿が「五人の良将」と評する者たちがいる。そのうち、張遼(ちょうりょう)、徐晃(じょこう)の両名は、他の3人(楽進/がくしん・于禁/うきん・張郃/ちょうこう)に比べて活躍の記載が多く、後世の評価も高い。今回は、その張遼と徐晃の評価や共通点などを掘り下げたいと思う。

孤立した関羽と会見し、曹操に降るよう説得する張遼。三国志演義連環画より
張遼と徐晃に共通する部分といえば、関羽との関係性であろう。まず『三国志演義』において、張遼と関羽とは敵ながらも友人同士のような関係だ。西暦198年、呂布が敗れて曹操に処刑されたが、その部下だった張遼は助命され、曹操に仕える。張遼の助命を嘆願したのは、劉備軍の部将・関羽であった。
その後、曹操と劉備は敵対。主君の劉備と離ればなれになった関羽は、下邳(かひ)城外で孤立し、死ぬ覚悟を決める。張遼は関羽を死なせまいと単騎で赴き、どうにか説得して曹操に降らせた。のちに関羽が曹操のもとを離れるさい、張遼は見送りの使者に立ち、関羽に斬りかかった夏侯惇(かこうとん)を諌止(かんし)した。降将だった関羽がほぼ唯一、心を許せた相手と読める張遼。この両者の友情は「演義」の見せ場である。
■正史にも記される張遼と関羽の間柄
これらの描写だが「演義」による、まったくの作り話ではない。正史「関羽伝」に、その元となった記述がある。曹操は、関羽が自分のもとを去ろうとする気配を察して「君、試しに聞いてみてくれんか?」と、張遼を遣わして関羽の本心を尋ねさせている。
また『傳子』(ふし)という文献には、張遼は関羽の本心を知り、彼が曹操に殺されることを恐れて報告をためらう。しかし「曹公は主君であり父、関羽は兄弟にすぎぬ」と、葛藤したすえに知らせたとある。張遼と関羽が兄弟のように親しかった可能性は十分にあろう。
また正史「張遼伝」には、昌豨(しょうき)という反乱軍の将を、張遼が単身で説得に行き、曹操に仕えさせるくだりがある。この逸話が「演義」において「関羽説得」のエピソードへとアレンジされたのだろう。
その後、張遼と関羽は、「赤壁」後の華容道(「演義」)のほかには会うこともなくなる。これと入れ替わるように、晩年の関羽の前に立ちはだかるのが徐晃(じょこう)である。
■徐晃、関羽に完勝
それは曹操のもとで過ごしたときから、20年ほども経過した219年。関羽は曹操軍の要地・樊城(はんじょう)を攻め、その救援に現れた徐晃と戦場で相対する。珍しいことだが、このとき両雄は陣頭に出て互いに言葉を交わすのだ(正史「関羽伝」)。

関羽と陣頭で会話したのち、攻撃を命じる徐晃。三国志演義連環画より
「私と公明どの(徐晃のあざな)の友誼の深さには、他の者とは比べものにならないものがあった。にもかかわらず、なぜしばしば息子(関平)を追いつめるのか」(『三国志演義』第76回)
徐晃も関羽との再会を喜び、最初は恭しく挨拶を交わす。しかし、突如として「雲長(関羽)の首を取った者には、千金の褒美を与えるぞ」と、自軍に攻撃を命じた。うろたえる関羽に「私は私情によって、国家の公的な問題をないがしろにはしません」と冷たく告げるのである。
この展開は、めずらしく「演義」も「正史」も、ほぼ同じ。徐晃は関羽と同郷であったと記され、降将のときに親しくなったのか、あるいは、もっと昔から知り合いだった可能性もあろう。
ただし「演義」では「徐晃は関羽を敬愛していた」とあるが、実際は徐晃が年上だったようだ。正史が引用する『蜀記』で、関羽は徐晃に「大兄」(ダーシォン)と呼びかけている。大兄は友人間の敬称ともされるが、普通は年長者に対して使う。小説やゲームでは関羽のほうが年長者のように描かれるが、そのイメージとは異なり、少なくとも同い年ぐらいだったのではないか。
結局、関羽は徐晃に完敗し、逃げ場を失って呉軍に討たれる。関羽を武神のように描く「演義」でも、右肘の矢傷が治っていなかったとはいえ、徐晃に打ち負けて撤退する。さすがの羅貫中も、こればかりはフォローしきれなかったようだ。
「演義」の昔話に戻るが、関羽が曹操のもとにいたときのこと。袁紹(えんしょう)との戦いに従軍した関羽は、顔良(がんりょう)と文醜(ぶんしゅう)を斬って曹操に恩返しした。実はこのとき、徐晃は顔良との一騎打ちに負けて敗走。張遼も文醜に斬りかかるが頬に矢を受け、落馬する醜態を見せている。
それが後年、皮肉にも徐晃は関羽に完勝し、快進撃を食い止めて死に追いやる。そして張遼は、合肥(がっぴ)戦線で孫権軍を相手に勇名を馳せ、超人的な活躍で孫権を討ち取る寸前まで肉迫した。
かたや関羽は「一万の兵に相当する」と讃えられたいっぽう、剛情で自信過剰。外交で孫権との関係を悪化させ、荊州という要地まで失った。張遼や徐晃には、そのような性格上の欠点といったものは伝わっていない。とくに張遼は同僚の楽進、李典(りてん)と不仲ながらも、うまく折り合いをつけて呉軍を撃退している。「正史」を読むに、かつての主君・呂布が戦場で見せた以上の武威を発揮した。
■「演義」での痛烈なしっぺ返し?
この両将の活躍は、当代の全武将中でも五本の指に入るのではないか。『三国志』が魏を正統とする正史であるため、魏将の活躍が多く記されているのは事実だが、張遼も徐晃も、関羽や呂布に一歩も引けをとらないどころか、当代最高クラスの名将と評価できよう。
だが、あまりの名将ぶりからか、両将は蜀びいきの小説『三国志演義』で手痛い「しっぺ返し」を喰らう。張遼は224年、曹丕(そうひ)の呉討伐に従軍するも大敗、呉将・丁奉(ていほう)の矢を腰に受けて帰らぬ人に。そして徐晃は228年、蜀に内応した孟達(もうたつ)の討伐に向かうが、頭部に矢を受けて死ぬ。正史では、二人ともそれ以前に病死しているが「演義」では寿命が延びた代わりに、矢傷がもとで命を落としているのだ。
病よりも戦傷で死ぬ方が、確かに武将らしい感じはするが、どちらも名場面的とはいえない。とくに徐晃は関羽を死に追いやった「罪」ゆえか、どうにもパッとしない最期だ。
張遼も合肥での活躍度合は正史に比べ「演義」では、かなり薄まっている。魏将の活躍を目立たなくする意図の影響かもしれない。『三国志演義』は偉大な歴史小説だが、やや蜀びいきが過ぎ、何人かの武将の没年までが改ざんされている。この二将の扱いでも、そのあたりが、ちょっと残念な部分である。