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「立ち往生」の元祖?曹操のボディガードをつとめた典韋は、なぜ最強ベスト3なのか?

ここからはじめる! 三国志入門 第56回


劉備の親衛隊長のように働いたのが趙雲(ちょううん)とすれば、曹操の親衛隊長が許褚(きょちょ)と典韋(てんい)である。大軍を率いての活躍はあまり見られないが、曹操の左右に侍す彼らは、まさに山門の仁王像のようであったに違いない。今回はそのうちの一人、典韋の実際の活躍を振りかえろう。


(写真)「人形劇 三国志」で川本喜八郎が製作した典韋の人形。川本プロダクション提供/飯田市・川本喜八郎人形美術館蔵

 典韋は、まさに「豪傑」を絵に描いたような存在だ。戦場では80斤(20キロ)の武器を振り回し、酒の席では人の2倍も飲み喰い。数人の給仕(世話係)をつけて、やっと間に合ったという。これは『三国志演義』で創作された姿かと思いきや、正史(歴史書)に書かれたものである。

 

 そのデビューも豪快。恩人の仇敵の家へ単身で乗り込み、訪問客を装って志を遂げた。そのために追われる身となったが、数百人もの捕り方が誰も彼に近づけなかったというから凄まじい。その後、軍に入ると数人がかりで持ち上げるような大旗を、片手で掲げ立てる怪力を見せた。

 

 

 許褚との果し合いは物語上の創作だが、10本あまりの戟(げき)を抱え、近距離から投げて敵軍を撃退したり「壮士に典君あり、一双戟(そうげき)八十斤を提(さ)ぐ」と讃えられたのは正史のものだ。

 

 だが、その活躍も長くは続かなかった。197年、宛(えん)城の戦い。張繍(ちょうしゅう)が裏切り、油断しきっていた曹操軍は危機に陥る。典韋は曹操を逃がすため、10数人の部下とともに防戦。愛用の双戟を一撃すれば、10人あまりの敵の武器を砕くなど、まるで「真・三國無双」さながらの奮闘を見せる。群がる敵勢の前に部下たちは次々倒れ、彼一人になった。

 

 全身に傷を負い、双戟が欠けると短刀だけで格闘。敵兵を両脇にかかえて突進し、なお数人を討つ。しかし、ついに全身の傷口が開き、絶叫しながら事切れた。あまりの恐ろしさに敵兵は近づけずにいたが、彼が動かないのをみて、ようやく首をとったという。「立ち往生」だったかは分からないが、そんな元祖・弁慶のような最期も歴史書の記述どおりだ。

 

「一呂二趙三典韋、四関五馬六張飛……」。中国に昔から伝わるという数え歌(三国二十四名将)には、呂布や趙雲に次いで3番目に彼の名前が挙がる。関羽、張飛など数多の武将を押しのけての趙雲・典韋のベスト3入りには大いに異論もあろう。しかし、典韋については、ほぼ正史に基づいた武勇伝にはうなずかざるを得ない。あるいは、ストリート・ファイトなら呂布より強かったのでは、と想像させる。

 

 小説『三国志演義』は「七実三虚」といわれるとおり、史実と創作が入り混じっている。歴史の流れは史実通りだが、口伝や後世の価値観によるフィクションが多く入り込み、その影響で魏や呉の人物は、かなり活躍が割り引かれている。

 

 小説を原作とする横山光輝『三国志』では、典韋と許褚が2人がかりで呂布に挑むも、子ども扱いされる描写がある。呂布を追い払うことに成功した関羽・張飛のタッグと対比されているわけだが、「演義」の影響が典韋にも及んでいることが伺えよう。

 

 ともかくも、典韋は魏将ながら正史の豪傑ぶりが「演義」にも忠実に反映された珍しい人物だ。曹操が台頭する過程での失策を補うような活躍や、その鬼神のような武勇は物語にしやすかったのだろう。まさに本物の豪傑である。

 

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上永哲矢うえなが てつや

歴史著述家・紀行作家。神奈川県出身。日本の歴史および「三国志」をはじめとする中国史の記事を多数手がけ、日本全国や中国各地や台湾の現地取材も精力的に行なう。著書に『三国志 その終わりと始まり』(三栄)、『戦国武将を癒やした温泉』(天夢人/山と渓谷社)、共著に『密教の聖地 高野山 その聖地に眠る偉人たち』(三栄)など。

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