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諸葛亮や郭嘉が名乗った「軍師」の職名は、なぜ姿を消したのか?

ここからはじめる! 三国志入門 第52回


軍の戦略や方針を立て、奇策で敵を欺く。諸葛孔明のような「軍師」の存在は、関羽や張飛といった猛将の活躍と同様に華々しい。「三国志」にとどまらず、古代中国には確かに実在したはずの軍師だが、しかし時代を下るにつれて、その存在は失われていった。それはなぜだろうか?


連環図画三國志(上海世界書局 中華民国16年)より

 この世に「軍師」という存在が初めて誕生したのは、いつだろうか。それは紀元前11世紀ごろ、釣りをしながら周の文王との出会いを待った太公望(たいこうぼう・呂尚)が始まりとされることが多い。ただし『史記』の原文を読むと、文王は呂尚とともに帰り「立てて『師』と為した」とあるだけで「軍師」とは書かれていない。

 

 役職としては前漢・後漢の間の「新」(823年)の時代からだ。隗囂(かいごう)という人物が、方望(ほうぼう)を招いて「軍師」にしたという『後漢書』の記述がある(囂既立,遣使聘請平陵人方望,以為軍師)。この二人は蜜月の関係だったが、やがて意見を用いられなくなった方望が隗囂のもとを去っている。

 

 それより前だが、前漢の劉邦(紀元前256~前195)に仕えた張良(ちょうりょう)という人がいる。張良は戦場に出て手柄を立てたことは一度もなく「謀(はかりごと)を帷幄(いあく)の中にめぐらし、千里の外に勝利を決した」と評価される。まさに、一般に広くイメージされる軍師の典型例といえよう。

 

 その張良とよく似た人物が後漢、つまり「三国志」の時代に登場する。それが曹操を補佐した荀彧(じゅんいく)であり、その甥の荀攸(じゅんゆう=157214)であろう。荀彧は曹操から「わが子房(しぼう=張良)である」と評され、荀攸は『魏志』に「以為軍師」(もって軍師となした)と、はっきり書かれている。

 

 どちらも軍師にふさわしい智謀の持ち主だが、荀彧は曹操の留守を預かって政務を代行することが多かった。戦場に出て作戦を立案したのは荀攸のほうだ。『傅子』によると、曹操は荀攸のことを「荀軍師」と呼んでいた。しかも彼は、十二の奇策(兵法?)を語り残したという。それを伝えられた鍾繇(しょうよう)が、書物にまとめる前に没したため幻になってしまったが、まさに「軍師」のイメージにぴったりではないか。

 

 もうひとり、郭嘉(かくか=170207)を挙げておきたい。彼も前線で陣営に身を置いた名補佐役だ。水攻めで呂布を撃ち破り、北方へ従軍して曹操の中原制覇に尽力するも38歳で早世。曹操は赤壁で敗れたとき「郭嘉がおれば、わしをこんな目にあわせなかったろうに」と嘆息したことで知られる。これでは荀攸の立場がないようにも思われるが……。

 

 その郭嘉は、曹操から「軍祭酒」(ぐんさいしゅ)に取り立てられたとある(『魏志』)。この「軍祭酒」が、いったいどんな役割を負ったのかは不明だが、『武帝紀』には曹操が198年に「軍師祭酒を置いた」とある。「軍祭酒」と同じ意味かもしれない。「軍師」と「祭酒」が別物なのか、つながった意味を持つのかはわからない。

 

 この「軍師祭酒」には董昭(とうしょう)や袁渙(えんかん)など、任命されていた者が複数いる。ほかにも前軍師の鍾繇(しょうよう)、中軍師の荀攸、左軍師の涼茂(りょうも)、右軍師の毛玠(もうかい)など、史書には何人もの「軍師」の名前がある。

 

 「軍師って、ひとりだけじゃないの?!」と言いたくなるが、軍人の官職のひとつに過ぎなかったようだ。

 

 いっぽう、劉備の蜀はどうだったか。後世「軍師」の代名詞である諸葛亮(孔明)が任じられたのが「軍師中郎将」だ。中郎将(ちゅうろうしょう)は、前漢からあった官職名で、一定の軍事権をもつ指揮官のこと。これには龐統(ほうとう)も任じられ、伏龍の諸葛亮と鳳雛(ほうすう)の龐統、いずれも文字通りの「軍師」であったことになる。

 

 さらに後年、諸葛亮は「軍師将軍」という職に任じられている。しかし後半生は丞相という皇帝に次ぐ権力者になり、蜀の全軍を統べた。劉備の没後は、とくに軍師のイメージから遠ざかっている。

 

 蜀では、ほかにも中軍師に楊儀(ようぎ)、前軍師に鄧芝(とうし)、後軍師に費禕(ひい)が就任。また呉でも朱然(しゅぜん)が右軍師に、丁奉(ていほう)が左軍師に任じられている。みな優秀な人材だが、こうなると「特別感」がない。蜀の魏延(ぎえん)も「前軍師」の職に就いていたと聞くと違和感さえ覚えるが、軍師の定義は一定ではなかったことがわかる。ともかく、まさに三国時代は軍師の全盛期であった。

 

 ただ、このように曖昧な呼称であったからか、その後「軍師」という役職は形骸化していく。あまつさえ三国を統一した西晋では「軍司」という表記に変わった。その理由が、西晋建国の功労者・司馬師(しばし=208255)の存在である。彼は司馬懿(しばい)の長男であり、西晋の初代皇帝・司馬炎より景帝と諡(おくりな)されている。

 

 古代中国には、避諱(ひき)という習慣があった。皇帝や主君の諱(いみな)は、失礼だから呼んだり書いたりするのは避けよう、というもの。この避諱によって「軍師」の職名も消えていったのではないか、そう考えられている。

 

 代表的な例が「京師」である。もともと中国歴代王朝の都は「京師」(けいし)とあらわされていたが、司馬師の名を避諱して「京都」(けいと・きょうと)と表されるようになった。日本の「京都」という言葉の起こりは、いうまでもなく中国由来。京都が司馬一族や軍師に通じていると考えると興味深くはないだろうか。

 

 ただ、それだけ中国文化の影響を受けた日本でさえも、軍師の名が公式的な形で使われたことはない。中国の職制が多く日本に伝わった唐以降「軍師」は「京師」と同様に、使われなくなっていったようだ。

 

 とくに近代日本は西洋の兵制を取り入れ、幕僚や参謀などの呼び名を好んで使うようになった。神がかり的な活躍をする軍師は『三国志演義』や『水滸伝』などの物語中の存在にとどまったようだ。ただし、それらが広まったころの江戸時代の軍記物は強く影響を受けた。黒田官兵衛、直江兼続、山本勘助といった戦国武将が「軍師」に当てはめられ、今もそのようなイメージが根強い。

 

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上永哲矢うえなが てつや

歴史著述家・紀行作家。神奈川県出身。日本の歴史および「三国志」をはじめとする中国史の記事を多数手がけ、日本全国や中国各地や台湾の現地取材も精力的に行なう。著書に『三国志 その終わりと始まり』(三栄)、『戦国武将を癒やした温泉』(天夢人/山と渓谷社)、共著に『密教の聖地 高野山 その聖地に眠る偉人たち』(三栄)など。

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