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「赤壁の戦い」と「天下三分」の最大の黒幕は、孔明ではなく魯粛だった?

ここからはじめる! 三国志入門 第48回


劉備と孫権の連合軍が、曹操の大軍勢を撃ち破った「赤壁の戦い」。三国志のハイライトといえる大戦の一番の殊勲者といえば、まず総指揮官の周瑜(しゅうゆ)だ。また小説などの物語上では、連合を成立させた軍師・諸葛亮(孔明)にスポットが当たる。だが史書には、その両名よりも前から暗躍した「黒幕」の存在が活写される。その人物こそ、孫権軍の将・魯粛(ろしゅく 172217)である。


 

連環図画三國志(上海世界書局 中華民国16年)より。

 

 魯粛は『三国志演義』では諸葛亮や周瑜に振りまわされる道化役を演じる。映画『レッドクリフ』などでもそのように描かれ、それはそれで魅力的だが、少しでも正史に触れると彼の凄味がわかる。

 

 魯粛の実家は地元の名門であったが、彼は家業を放り出して徒党を集め、狩猟ばかりしていた。そんな姿を見た人々は「狂兒(きょうじ)」、つまり頭が狂った奴だと思ったという(『呉書』)。「大うつけ」信長のような生い立ちである。あるとき周瑜が支援を求めてくると、2つの穀物蔵のうち、1つを丸ごと差し出して意気投合した。

 

孫権をたじろがせた「天下二分」の大計

 

 若くして傑物ぶりを発揮していた魯粛。その彼が孫権に仕えるようになったときの逸話がまた面白い。孫権と膝を突き合わせ、酒を飲みながら魯粛は言った。

 

「漢王朝の再興などできません。曹操を倒すことも、すぐには無理です。だとすれば、この江東を足がかりに機をうかがい、江南・江東(長江より南)をすべて制してから北方を平らげましょう。それが帝王の事業というものです」

 

 いきなり皇帝をめざせ、というのだ。まだ死んだ兄(孫策)の跡を継いで間もない孫権は「見当もつかないよ」と答えるのが精いっぱい。この時代、一旗あげようとする者の大半は「漢の復興」を大義名分にした。あの周瑜ですら、赤壁の戦いでは「漢賊(曹操)討つべし」をスローガンにしたほどだ。

 

 忠や孝を重んじた当時の風潮で、魯粛の策は型破りだが、確かに曹操から献帝を救い出すのは至難。ならば天下を二分して対抗しようという合理的なものではあった。ただ同時代、周瑜や甘寧(かんねい)も天下二分に近いことを言っていた。パイオニアではなくとも、その実現に動いたことに価値がある。

 

天下二分の構想が崩れ、方針を切り変える

 

 208年、にわかに北方が騒がしくなった。魯粛は北荊州の襄陽(じょうよう)へ視察に向かう。劉備などを支援し、曹操を南下させないための対策を打とうと考えたと思われる。

 

 だが、一歩おそかった。魯粛が北へ向かうと、すでに襄陽は曹操に制圧され、劉備は命からがら逃走していた。これは想定外だったかもしれない。

 

 魯粛はとりあえず劉備と会見した。敗残軍とはいえ、まだ1万の兵があり、諸葛亮など多くの人傑を連れていた。また何といっても、劉備には曹操との実戦経験があった。味方にすれば十分に戦える、そう判断した魯粛は同盟のお膳立てを整えた。

 

 赤壁大戦前、孫権軍は荊州江夏(こうか)太守・黄祖(こうそ)を破るのに8年も費やしていた。自軍がそれほど盤石ではないことを魯粛もわかっていたからこそ、劉備軍をうまく「使おう」としたのである。

 

 そして諸葛亮を江東へ連れ帰り、周瑜に協力を頼んで「赤壁の戦い」をプロデュースし、孫権軍を勝利に導く。魯粛の筋書きどおりに運んだようなもので、まさにフィクサー(黒幕)であった。

 

 その後、天下は三分の流れに進む。赤壁大戦から2年後に周瑜が没し、軍事・外交を引き継いだ魯粛は、その後も劉備を支援し続ける。それどころか荊州南部の統治まで任せた。知らせを聞いた曹操はショックを受け、持っていた筆を落としたという。

 

劉備との友好には、どんな意味があったのか?

 

 実をいうと、赤壁の戦い以前に襄陽が曹操に占領された時点で「天下二分の計」は瓦解したといっていい。よって劉備と手を組んで「天下三分」に切り替えざるを得なくなったのである。「天下三分」といえば、諸葛亮が劉備に提案していたことで有名だ。おそらく魯粛は劉備・諸葛亮と話し合って、そう決めたのだろう。最終的にはどうあれ、三分した後は「曹操を倒す」という目的で一致していた。

 

 その後、曹操が215年に漢中へ侵入すると、劉備は荊州南部の東半分を孫権に返還した。孫権(魯粛)の機嫌を損ね、挟み撃ちされてはたまらないから譲歩したのだ。

 

 このときの交渉役は、もちろん魯粛であった。後世に「単刀会」と呼ばれる会見に臨み、関羽(劉備軍)との交渉で割譲を取りつけたのである。魯粛とて、無条件に荊州を貸していたのではない。劉備が新たな土地を得たなら、うまくやって少しずつでも取り戻すつもりだった。関羽もそう思っていたからこそ、魯粛に義理立てしたと考えても良いのではないか。

 

 だが、魯粛の計画は道なかばに終わる。46歳の働き盛りで世を去ったのだ。史書には「肅年四十六、建安二十二年(217年)卒」とあるだけ。劉備との同調政策に反発する声も多かったから、不自然死を勘ぐってしまうほどの急逝である。事実、その直後に孫権は戦略をガラリと変え、なんと曹操に「降伏」を申し入れるのだ。

 

 それは劉備との敵対を意味した。荊州を統治する関羽との仲は、魯粛の死をきっかけに悪化の一途をたどる。後任の呂蒙(りょもう)は、魯粛とは逆の「強硬派」で、曹操と組んで関羽を背後から襲った。魯粛の死から2年後(219年)のことである。孫・劉の抗争は激化し、共に国力を落としていく。魯子敬、その存在が時代に与えた影響は極めて大きかったといえよう。

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上永哲矢うえなが てつや

歴史著述家・紀行作家。神奈川県出身。日本の歴史および「三国志」をはじめとする中国史の記事を多数手がけ、日本全国や中国各地や台湾の現地取材も精力的に行なう。著書に『三国志 その終わりと始まり』(三栄)、『戦国武将を癒やした温泉』(天夢人/山と渓谷社)、共著に『密教の聖地 高野山 その聖地に眠る偉人たち』(三栄)など。

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