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曹操は、どうやって兵力10倍の袁紹に勝てたのか?

ここからはじめる! 三国志入門 第41回


「天下分け目の決戦」といえば、わが国の関ヶ原の戦い(1600年)が有名だが、そのちょうど1400年前の西暦200年、中国大陸北部でも有名な決戦があった。『三国志』の英雄・曹操が10倍の兵力差を覆して、宿敵・袁紹(えんしょう)を打ち破った官渡(かんと)の戦いである。曹操はいったい、どのようにして勝利できたのか。正史『三国志』をもとに紐解きたい。


 

後漢の流れを決定づけた「天下分け目の戦い」

 

官渡古戦場(河南省鄭州市)にて筆者撮影

 

 袁紹は、大陸の河北地方に強大な勢力を誇った名族。対する曹操は当時、河南地方を制して帝(献帝)の擁立にも成功、日の出の勢いだった。黄河の北を治める袁紹、南を治める曹操という二大勢力が、ぶつかり合ったのが「官渡の戦い」である。

 

 両者の兵力には大きな開きがあった。正史『三国志』(魏志)によると、袁紹軍は数10万の兵力から選りすぐった歩兵10万、騎兵1万。一方の曹操軍は1万未満と記されている。およそ10倍の差があったというのだ。曹操軍の数は「もっと多かったのでは?」という異論も早くからあるが、劣勢には違いなかったのだろう。

 

 はたして、戦局は数で勝る袁紹軍が序盤から圧倒した。黄河を越えて迫る袁紹軍に対し、曹操は得意の奇襲をしかけて対抗。緒戦の白馬で袁紹軍の武将・顔良(がんりょう)を倒し、延津では文醜(ぶんしゅう)を討ち取った。

 

 それでも兵力差は覆せず、曹操はじりじり後退。一時は確保した延津も守り切れず、官渡まで下がった。ここを突破されれば、南の許都(曹操が保護した献帝がいる都)も危機に陥るという、まさに背水の地であった。

 

 ここでも袁紹は数の利を生かし、東西数十里にわたって陣を布き、少しずつ前進。奇襲も封じられ、曹操は官渡の砦に立て籠もるよりほかに術がなくなった。

 

弱気になるも、軍師の助言で好機を待つ

 

 戦いは半年におよび、曹操軍は兵糧が不足する。少数の側が兵糧不足とは意外な現象だが、曹操の領地は相次ぐ戦乱で荒廃しきっていた。この兵糧不足は数年来つづいており、それが兵数の不利につながっていたのかもしれない。さすがの曹操も弱気になって撤退を考え始める。

 

 しかし、軍師・荀彧(じゅんいく)の手紙が彼を思いとどまらせた。

 

「むかし、劉邦と項羽は対陣し、先に退くことを嫌いました。退いたほうが屈服を余儀なくされるからです。この戦いも対陣して半年になります。今にも変事が起きますから、奇策を用いる時期を逃してはいけません」(荀彧伝)

 

 冒頭に書いた通り、この戦いが「天下分け目」とされる重要なものであったことが、荀彧が発した「是天下之大機也」(武帝紀)という言葉からも推し量れる。

 

 それに従った曹操は、粘り強く対陣を続けた。やがて袁紹軍の輜重隊(しちょうたい/補給部隊)の場所がわかった。敵の参謀が寝返って、情報を知らせに来たのである。側近たちは「策略では?」と疑うが、曹操はみずから5000の騎兵を連れて強行に出る。大ばくちだったが、この一瞬の機を突いた奇襲に1万の敵守備隊は慌てふためいた。

 

 曹操は敵将を斬り、兵糧をことごとく焼き払った。袁紹も援軍をさしむけたが間に合わず、動揺が全軍に広がり、寝返りが続出して瓦解。圧倒的不利を覆した曹操の勝利であった。

 

 敗れたとはいえ、なお袁紹軍には広大な領地と多くの兵力があった。しかし、天命が曹操に味方した。袁紹は2年後の202年に病死したのである。官渡の敗戦の影響で、袁紹の領地では反乱が頻発。その鎮圧に手を焼き、神経をすり減らしたものとみえる。曹操は袁紹の残党や河北の諸勢力を5年かけて討伐し、207年には中国大陸の北半分を統一。のちの王朝「魏」の基盤を築くにいたった。

 

袁紹の「まさか」の敗因

 

 戦後の袁紹陣営からは多くの書簡が発見された。それは袁紹に内通を約束する密書の数々であった。曹操が終始劣勢だったためであろう。中身をみれば誰が裏切ろうとしたか一目瞭然であったが、曹操はそれをすぐに焼き捨てさせた。ホッと胸をなでおろした者は多かったに違いない。

 

 それだけ有利とみられていた袁紹は、なぜ敗戦を喫したのか。曹操軍と同じく、袁紹陣営にも有能な参謀や将軍は何人もいた。とくに参謀が多く、田豊(でんぽう)、沮授(そじゅ)、審配(しんぱい)、郭図(かくと)、許攸(きょゆう)などが代表格だった。袁紹は彼らの意見をよく聞いていたが、名門ゆえのプライドか、次第に好き嫌いが激しくなり諫言に耳を貸さなくなった。とくに田豊や沮授、許攸は袁紹に煙たがられ、遠ざけられている。

 

 また袁紹の息子たちも仲が悪く、一枚岩ではなかった。彼らの派閥はそれぞれに違う意見を唱えて対立した。こうした内部抗争のなか、袁紹に遠ざけられた許攸が曹操に寝返って情報を漏らし、敗北につながったのである。

 

 決して無能ではなかった袁紹だが、ひとえにその強大な組織を統制しきれなかったのだろう。また彼には天運もなかった。あと数年、長く生きていれば再び勢力を立て直し、曹操が敗れていた可能性も充分に考えられたであろう。

 

 

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上永哲矢うえなが てつや

歴史著述家・紀行作家。神奈川県出身。日本の歴史および「三国志」をはじめとする中国史の記事を多数手がけ、日本全国や中国各地や台湾の現地取材も精力的に行なう。著書に『三国志 その終わりと始まり』(三栄)、『戦国武将を癒やした温泉』(天夢人/山と渓谷社)、共著に『密教の聖地 高野山 その聖地に眠る偉人たち』(三栄)など。

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