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龐統や張松は、どうして「ブサメン」に設定されてしまったのか?


いつの世もそうだが、もちろん三国志の時代にも、イケメンがいれば、醜男(ぶおとこ)もいた。そのブサメンとなると、やはり龐統(ほうとう)と張松(ちょうしょう)の二人が筆頭に挙げられよう。彼らは何ゆえに、ブサメンとして語り継がれるにいたってしまったのか・・・?


 

周瑜や趙雲とは対照的な彼らの描写

諸葛亮(右)と並ぶ龐統(左)の像。あまり不細工にはつくられていない(四川省徳陽市・白馬関にて。筆者撮影)

『三国志演義』によれば、龐統は「太く濃い眉にひしゃげた鼻、黒い顔に短い髯(ひげ)という無様な顔立ち」、張松は「生まれつき額が出て頭はとんがり、鼻ひしゃげて歯が反りかえり、身の丈は五尺に満たず」という散々な描かれようだ。

 

「額広く顔大きく、体は虎の如く」といわれた孫堅(そんけん)や「容姿端麗」と書かれた周瑜(しゅうゆ)、また「威風凛々」の趙雲(ちょううん)などとはまったくの好対照といえよう。

 

 孫権はそんな龐統を一瞥しただけで不快感を覚え、相手にしない。劉備も同様で、ろくに話もせずに閑職へ追いやった。曹操は龐統が「鳳雛先生」であることを知っていたため歓迎したが、のちに張松を迎えた際は「その無様な顔立ちに嫌悪の情を持った」と、冷たくあしらう。これに対し、劉備は龐統のときとは違って張松を歓待するという対照的な描写となっているのがおもしろい。

 

 正史を確認してみよう。龐統は「少時朴鈍」、つまり若いころは地味で口下手、もっさりしていたという。冴えない印象であったのはわかるが「醜い」とは、どこにも書いていない。これがエスカレートして「無様な顔立ち」にされたわけである。

 

 彼が不細工な「鳳雛(ほうすう)」なら、「伏龍(ふくりゅう)」として並び称される諸葛亮は長身で涼やかな人として描かれる。慎ましい諸葛亮に対し、龐統は大酒飲みで開けっぴろげにものをいう。そんな違いを明確にするため、いわば凸凹コンビの相方のような役目を負わされてしまったのではなかろうか。

 

 張松の場合も「小男で自分勝手にふるまい……」という紹介がされているだけで容姿まではわからない。曹操の兵書をたちまちに暗記してみせるなど、その才能は小説にもそのまま採用されている。『三国志演義』では、曹操が冷遇した張松をあたたかく迎えることで、劉備の格を上げる駒にもなっているわけだ。

 

 また『演義』は、彼らを醜男に再設定したことで「人を見た目で判断してはならない」という教訓を暗に教えているのかもしれない。

 

 不幸にして、この両者は志半ばでの最期を遂げた。そのような共通点もあって、容貌から親近感を覚えさせると同時に、哀愁をも感じさせる存在である。

 

(つづく)

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上永哲矢うえなが てつや

歴史著述家・紀行作家。神奈川県出身。日本の歴史および「三国志」をはじめとする中国史の記事を多数手がけ、日本全国や中国各地や台湾の現地取材も精力的に行なう。著書に『三国志 その終わりと始まり』(三栄)、『偉人たちの温泉通信簿』(秀和システム)、共著に『密教の聖地 高野山 その聖地に眠る偉人たち』(三栄)など。

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