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【 三国志入門 】妻を怒らせ、別居・離婚に至った曹操は、何をやらかした!?


歴史の作り手、戦の主役は男性である。もちろん、乱世である『三国志』の時代も同様だった。いっぽうの女性たちはまさに日陰の存在。その本名さえ、正史には書かれていない。当時の女性の地位などを考えれば致し方がない。それでも、わずかながら残る彼女たちの記録を探ると、英雄たちの意外な一面や素顔が見えてくる。今回は、曹操の妻たちのエピソードをいくつか紹介しよう。


 

妻を怒らせ、ついに離縁に至ってしまった曹操

 

曹操の正室・丁氏(安徽省亳州市「魏武祠」の展示より)

 

 英雄、色を好む――。権力者は一夫多妻。古来、子孫を多く残すことも英雄の条件であった。それは三国志の英雄・曹操にも当てはまる。彼は政治・軍事・文学などに精通したほか、やっぱりと言うべきか、相当な「女好き」でもあった。

 

 曹操には、判明しているだけで1415人の妻・側室がいた。今回は、そのうち3人の正妻だけを紹介する。最初の正妻は劉(りゅう)氏というが、彼女は息子の曹昴(そうこう)を産んですぐに亡くなる。2人目の正妻・丁(てい)氏が、曹昴を養育して我が子のように可愛がった。しかし西暦197年、その愛息は曹操のミスにより戦場に散った。丁氏は嘆き悲しみ、あまりに恨みごとを繰り返すので、曹操は彼女を里へ帰してしまう。

 

 丁氏がそこまで怒ったのには理由があった。曹操が敵方にいた未亡人(張済の妻)を側室にしたことで敵の怒りを買い、攻められた結果、曹昴が命を落としたからだ。『魏略』にある「私の子を殺しながら平気な顔をして」という言葉以外にも「他の女にうつつを抜かして・・・」なんてことも云っていたかもしれない。

 

 その後、曹操はさすがに悪いと思ったのか家へ出向くが、丁氏は機織(はたおり)機の前を動かなかった。平謝りして「一緒に車で帰ろう」と言ったが、完全に無視される。部屋を出る前、扉の前で立ち止まって「まだ許してくれないのか?」と言うが丁氏、答えもしない。

 

「じゃあ、本当にお別れだね」と曹操は寂しげに去り、とうとう離縁となってしまった。「乱世の奸雄(かんゆう)」も、へそを曲げた妻の前では面目丸つぶれといったところ。このあたりは漫画『蒼天航路』に描かれていたので、ご存じの方も多いかもしれない。

 

 その後、3人目の正室となるのが卞(べん)氏(卞皇后)である。曹操は25歳の時(179年)、身内が罪を犯したことに連座して故郷の譙(しょう)県に帰り、そこで卞氏と出会った。卞氏は酒席に上がる歌妓だったが、己をわきまえており慎ましい人だった。

 

 曹操との間に、のちの魏帝・曹丕(そうひ)や曹植(そうしょく)ら多くの子をもうけて正室となるも、前妻の丁氏を尊重してやまなかったという。「何故こんなに尽くしてくれるの?」とまで言われたそうだ。丁氏が没したとき、曹操に頼んで都・許昌(きょしょう)の南に埋葬したのも卞氏だった。

 

 卞氏は曹操の没後も10年ほど生き、230年に70歳前後で没した。曹操が眠る高陵(墓)に合葬されたと、正史に記されている。2009年に曹操の墓が発見され、そのときに出土した女性の遺骨が2体あった。一人は20代とみられる若い女性で、早くに亡くなっていた劉氏。もう一人が50代以上の女性とみられ、卞氏ではないかと推定されている。

 

三国志に書かれた「男女の道」

 

 卞氏らの事跡を記した『三国志』「后妃伝」には、なかなか見事な書き出しがある。「男が家の外で、女が家の内で正しい場所を得る。男女の正しきは、天地の大義なり」と、『易経』(えききょう)の引用で始めている。三国時代より、ずっと古い周代の書にも男女の道は説かれていたわけだ。その後に続く序文の一部を引用しておこう。

 

「もっぱら美貌を尊んで、美徳を根本としない結果、風俗・教化はしだいに衰え、国家の大綱は破壊され、混乱に陥ることになる。なんと惜しいことではないか。ああ、国家を支配し、家庭を営む者は、これを永遠の戒めとしなければならない」

 

 昨今は多様性が叫ばれ、男女の垣根が取り払われようという動きになっているが、古書が説く男女の道もないがしろにせず、むしろ今だからこそ見直すべきなのかもしれない。

 

(続く)

 

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上永哲矢うえなが てつや

歴史著述家・紀行作家。神奈川県出身。日本の歴史および「三国志」をはじめとする中国史の記事を多数手がけ、日本全国や中国各地や台湾の現地取材も精力的に行なう。著書に『三国志 その終わりと始まり』(三栄)、『偉人たちの温泉通信簿』(秀和システム)、共著に『密教の聖地 高野山 その聖地に眠る偉人たち』(三栄)など。

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