『三国志』の乱世はどのようにして始まったのか⁉
いま「学び直し」たい歴史
『三国志』とは、後漢末期から始まった群雄割拠の乱世を描いた興亡史。三国の勇将たちはどんな攻防を繰り返し、同盟を組み、どのように王朝を築いていったのか? 世界中で愛される『三国志』のはじまりについて紹介する。
曹操・劉備・孫権の三極構造はどのように定まったのか⁉

劉備が本拠を置いた成都にある武候祠の中に立つ孔明像
王朝が倒れると、そのあとの構図はだいたい決まっている。
全体をおさえていたものが失われるので、群雄が割拠し、次の天下の主の座を争いはじめる。群雄とは、それまで国家の下部組織であった地方自治体の長官や豪族である。
後漢から三国の時代にも、同様のことが起こった。その事情については、三国志の歴史が記された『正史』も『演義』も把握の仕方に大差はない。
184年の黄巾の乱で後漢の滅亡が始まり、宦官(かんがん)と外威(何進)勢力の抗争。何進が謀殺されると、官僚たちの逆襲で宦官が一掃される。
つづいて天下をおさえたかに見えたのは、董卓(とうたく)の圧倒的軍事力であった。
しかし、192年、その董卓が呂布(りょふ)に殺されると、天下を制圧できるような巨大な存在はなく、群雄割拠の構図となる。
群雄はそれぞれの地盤を固め、天下をねらって駆けひき、裏切りの抗争をくりひろげた。袁紹(えんしょう)は河北の雄。曹操(そうそう)は河南に強力な地盤を有して献帝を手中におさめ、袁術(えんじゅつ)、公孫瓉(こうそんさん)、孫堅(そんけん)、荊州の劉表(りゅうひょう)らが並び立っていた。
一歩リードしていたのが曹操である。200年に官渡(かんと)で袁紹を破り、さらに河北から北方までを制圧した。しかし、広い中国のこと。何年もかかり、その間に勢無名の存在に近かった劉備(りゅうび)が力をつけてくる。
驕慢な袁術、変節をくりかえした呂布らは、袋叩きにあうかっこうで亡び、しだいに有力者がしぼられてゆく。
江南の孫権は、劉備と手を組み、208年の赤壁(せきへき)の戦いで曹操を斥ける。これで曹操の出足は完全に止まり、その間隙をぬって劉備が蜀を取ってしまい曹操・劉備・孫権の三極構造が定まった。
そのあとは、おたがいに一進一退の攻防を演じ、彼らは三人とも、自分の人生のなかで結着を見ることはできなかったのである。
『正史』では淡々と事柄が記されており、勢力変遷を見るうえではもってこいであるが、三国鼎立の期間において、『演義』には描かれていない説話も多い。
たとえば、『演義』では関羽の仇役である呉の武将・潘璋(はんしょう)だが、『正史』では軍の備品の用意が多く、備品が不足している他の軍は皆、潘璋の陣に買いに来ていたと詳細に伝わる。
また、呉では孫権が、酒の飲めない韋昭(いしょう)のために特別、茶で乾杯することを許してやっていたなど、『演義』からは窺うことのできない列伝(人物ごとの説話)が多数描かれている。
このように、『正史』ならではの真の人物像を知ることで、勢力変遷の構図も深みを帯びていき、『演義』の内容を裏打ちするものとなっている。

横浜・中華街に立つ、三国志の英雄である関羽を祀る「関帝廟」
監修・文/渡辺精一
(『歴史人』電子版『大人の歴史学び直し』シリーズ「三国志」より)