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呂布の愛馬・赤兎馬(せきとば)は「一日千里」も走れたのか?

ここからはじめる! 三国志入門 第23回

遊牧民族が使う汗血馬を武帝が輸入し大量に育てる

 

「馬は無双の名馬赤兎(せきと)。その迅(はや)さ、強靱さ、逞(たくま)しさ。赤兎の蹄に踏みつぶされる兵だけでも、何十か何百か知れなかった。」(吉川英治『三国志』より)

 

 三国志に登場する英雄たちの活躍に欠かせない存在に「馬」がある。このような一文からは、戦場を馳せる猛者の姿がありありと想像できよう。

 

赤兎馬にまたがった関羽の像(湖北省荊州市にて筆者撮影)

 文中の赤兎馬は「一日千里(約500km)を駆ける」赤毛の馬で『三国志演義』を原典とする読み物のなかで、最もよく知られる名馬だ。最初は董卓(とうたく)の愛馬であったが、呂布(りょふ)に与えられ、呂布の死後は曹操(そうそう)が手に入れ、それを関羽(かんう)に与える。以後は青龍偃月刀(せいりゅうえんげつとう)とともに関羽のトレードマークにもなり、関羽が没するまで行動をともにする。

 

 この赤兎馬、物語だけの存在ではない。正史『三国志』に呂布の愛馬として、堂々記されている。張燕(ちょうえん)軍との戦いで、呂布は常に赤兎馬にまたがって敵陣に突進し、これを打ち破った(『呂布伝』)。さらにまた「人中の呂布、馬中の赤兎」(『曹瞞伝』)と讃えられたという。「演義」のように体毛が赤いとか「千里を駆ける」といった特徴こそ記されないが、その駿馬ぶりは特筆されるべきものであったようだ。

 

 前漢時代に「血のような汗を流して走る馬」という意味の「汗血馬」(かんけつば)が存在した。これは中国の西域に住んだ遊牧民族が使った馬で、武帝(前漢の7代皇帝)が輸入して大量に育てたという。

 

『漢書』武帝紀(ぶていき)の注に「大宛もと天馬種あり、石を踏みて血を汗す。汗は前肩髆(ぜんけんはく)より出でて血のごとし、一日に千里と号す」とある。これが「一日一千里」の出どころだ。おそらくは誇張表現で、実際に走れたかはわからないが『三国志演義』の赤兎馬は、この馬がモデルになったと考えられよう。

 

呂布の愛馬として記される赤兎馬以外にも名馬あり

 

 赤兎馬以外にも、さまざまな名馬がいたことが三国志(正史)の関連史書からは確認できる。その筆頭が劉備(りゅうび)の愛馬として知られる的廬(てきろ)である。劉備が襄陽(じょうよう)に滞在中、追っ手から逃れるに際し、乗っていたこの馬が渓流に飛び込み、流れをすいすいと越えたという逸話が『先主伝』(注「世語」)にある。

 

 この馬は西晋時代に記された『傅鶉觚集 (ふじゅんこしゅう) 』によれば、劉備が許都に滞在中、曹操(そうそう)からもらったものであるという。劉備はどの馬も気に入らなかったが、試しに下級の馬を集めた廏舎(きゅうしゃ)を覗くと、骨が浮き上がるほどの痩せ馬がいる。これに哀れみを持って貰うことに決めたが、人々はみな嘲笑した。しかし、その脚は電光が弾けるように速く、いくら追いかけても追いつけなかったという。

 

 曹操の愛馬は絶影(ぜつえい)という。影すら残さぬ速さで走るとされ、張繍(ちょうしゅう)の夜襲を受け、宛(えん)城から脱出する際に乗ったが、額と足に矢を受けたとある(『武帝紀』注「魏書」)。「演義」でも曹操の愛馬が矢を受けて絶命する場面があるが「絶影」の名は出てこない。その代わりに「演義」には曹操の馬が許田の巻狩りの際に乗っていた「爪黄飛電」(そうこうひでん)が出てくる。

 

 そのほかにも、曹洪(こう)が持っていて曹操に貸した愛馬「白鵠」(はくこう/『拾遺記』)、曹真(しん)の愛馬「驚帆」(きょうほ/『古今注』)の名などがみられる。英雄たちはこのようにお気に入りの馬に名を付けて愛乗していたのだろう。また民間伝承ではあるが、趙雲(ちょううん)が乗っていたのが「白龍」(はくりゅう)なる白馬だったという。NHK「人形劇三国志」(1982年~)には、これが劉備の愛馬として登場していたことが思い出される。

 

(次回に続く)

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上永哲矢うえなが てつや

歴史著述家・紀行作家。神奈川県出身。日本の歴史および「三国志」をはじめとする中国史の記事を多数手がけ、日本全国や中国各地や台湾の現地取材も精力的に行なう。著書に『三国志 その終わりと始まり』(三栄)、『偉人たちの温泉通信簿』(秀和システム)、共著に『密教の聖地 高野山 その聖地に眠る偉人たち』(三栄)など。

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