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諸葛亮・関羽・曹操を「三絶」とする新解釈は、なぜ日本で知られていなかったのか?

ここからはじめる! 三国志入門 第20回

劉備をさしおいて「主役」扱いされる3人

 

 小説『三国志演義』の主人公といえば、まず劉備(りゅうび)の名前があがるかもしれない。たしかに劉備は物語の根幹をなす「仁」の権化ではあるが、実際に華々しく描かれるのは次の3名と位置づけられる。

 

賢相・・・諸葛亮(しょかつりょう)

名将・・・関羽(かんう)

奸雄・・・曹操(そうそう)

(画像/湖北省襄陽市の諸葛亮広場に建つ諸葛亮像)

 智の極み、義の極み、奸(かん)の極み、つまりそれぞれの「絶人」として、作中でも別格扱いの描写がなされる。それを決めたのは清代の初めに活躍した作家・毛宗崗(もうそうこう)という人だ。

 

 歴史書『三国志』(正史)の成立は3世紀。実に1700年ほど前にさかのぼるが、小説の『三国志演義』の成立は、それから1000年以上も経た明(みん・13681644年)代の初め。それから様々な筆者による刊本が生まれたが、毛宗崗は、その決定版というべきものを出した。時期は1666年(康煕・こうき5年)ごろとみられている。

 

「私は思う。三国に三奇あり。三絶と呼ぶべし。

諸葛孔明、一絶なり。関雲長、一絶なり。曹操もまた一絶なり。」

 

「三絶」とは、この毛宗崗が『三国志演義』を校訂・出版するとき「読三国志法」として書き加えた、いわば「新解釈」である。彼の刊本「毛宗崗本」は、それまで主流だった「李卓吾(りたくご)本」を再編集したものだが、当時としては斬新な視点が評価され、一躍スタンダードになった。以降、中国で出版された『三国志演義』は、ほぼすべてが「毛宗崗本」をベースにしたものといっても良いだろう。

 

 ところが、である。日本では「毛宗崗本」が、そこまでの広まりを見せたとは言いがたい。「三絶」という言葉も、一般レベルでは最近まで浸透していなかった、というより「最近知った」という人も多いように思える。

 

 実は、日本で『三国志演義』として出版されているものは、毛宗崗が校訂する前の「李卓吾本」をベースとして翻訳された『通俗三国志』がもとになったものなのである。

 

日本では、旧バージョン(李卓吾本)の方が広まった

 

『三国志演義』は、漢文小説として日本へ入ってきたが、江戸時代の初め、元禄2年(1689)~5年ごろ、湖南文山(こなんぶんざん)という人が日本語訳し、『通俗三国志』として出版した。これに絵を加えた『絵本通俗三国志』が19世紀に発行され、庶民の間に「三国志」が爆発的に広まったのだ。

 

 たとえば、日本の三国志小説でもっとも有名な吉川英治『三国志』は、『通俗三国志』をベースにした作品だ。また、長編漫画の横山光輝『三国志』も吉川英治版が原作のため『通俗三国志』の影響を受けている。よって、それらに「三絶」の表記はない。

 

 とくに吉川英治が篇外余録で「ひと口にいえば、三国志は曹操に始まって孔明に終る二大英傑の成敗争奪(せいはいそうだつ)の跡を叙したものというもさしつかえない。」と書いたことから、曹操と諸葛亮を主人公とみる解釈のほうが広まることにもなった。

 

 ひるがえって現在は「三絶」の存在を知る人が増えた。それはひとえに渡邉義浩(わたなべよしひろ)氏や中川諭(なかがわさとし)氏をはじめとする、現代の研究者が「毛宗崗本」の重要性に着目し、その評価・研究を精力的にアピールした成果といえるのではないだろうか。

 

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上永哲矢うえなが てつや

歴史著述家・紀行作家。神奈川県出身。日本の歴史および「三国志」をはじめとする中国史の記事を多数手がけ、日本全国や中国各地や台湾の現地取材も精力的に行なう。著書に『三国志 その終わりと始まり』(三栄)、『戦国武将を癒やした温泉』(天夢人/山と渓谷社)、共著に『密教の聖地 高野山 その聖地に眠る偉人たち』(三栄)など。

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