三国志に登場する「宦官」(かんがん)は、なぜ根絶やしにならなかったのか?
ここからはじめる! 三国志入門 第17回
日本には根付かなかった「宦官」文化
中国の歴史関連書を読んでいると、宦官(かんがん)という存在が目につくかと思う。

中国の王朝の宮殿図 国立国会図書館蔵『支那史 第二』より
『三国志』でも、いわゆる序盤に十常侍(じゅうじょうじ)という宦官グループが登場する。その一員である張譲(ちょうじょう)、趙忠(ちょうちゅう)などは、時の皇帝から寵愛を受け、権勢を欲しいままにする。
有力官僚と宦官らが争い、政治が乱れを呼び、黄巾の乱という民衆反乱がおき、三国志の時代が幕を開けるという流れである。
宦官の歴史は古く、夏(か)や殷(いん)といった中国の古代王朝時代から存在していたとされる。
その実態は「去勢された男性」、つまり男性器を切りとられた役人である。敵の捕虜や罪人の性器を切りとり、小間使いとして雇ったのが始まりという。やがて彼らは皇帝の生活の場である後宮に入れられた。皇后(皇帝の妻)や、大勢の妾(めかけ)が住んでいるため、皇帝以外は男子禁制の場である。間違いが起こってはならない場に、男でも女でもない彼らは都合がよかった。
皇帝や皇后は着替えたり、食事をしたり、トイレの後始末なども自分ではやらない。その世話をしてくれる宦官は何かと頼りになるし、学問や遊びを教わったりもするから、最も信頼のおける人間になる。それが高じて政治権限まで与えてしまうようになるわけである。こうなると、宦官は普通の官僚たちでは太刀打ちできないほどの絶大な権限を持つにいたるというわけだ。
宦官のなかには出世欲が極めて旺盛なものがおり、その権力抗争は熾烈を極め、政治腐敗どころか国の衰退の要因にまでなった。もちろん有能な宦官もいたが、権力を握り堕落する例も多かったようである。もちろん、何千人も居た宦官のなかで、そんな権力を握れるのはごく一部。その他は召使い以下の存在ではあった。
189年、袁紹(えんしょう)や袁術(えんじゅつ)が兵を率いて洛陽の宮殿内に踏み込み、数千人もいたという宦官らを殺害し、根絶やしにした。それでも皇帝という存在あるかぎり、後宮も消えないという中国王朝のシステムのなかで、ほどなく宦官は復活したようだ。
魏や呉では宦官の動きが目立つことはなかったが、蜀の末期には再び宦官が存在感を放つ。皇帝の劉禅(りゅうぜん)が、宦官の黄皓(こうこう)を重用したのである。黄皓は絵に描いたような佞臣(ねいしん)で、蜀の滅亡の原因をつくった張本人とされている。
三国時代の後の記録では、五代十国時代の南漢(909~971年)が、総人口100万人のうち2万人もの宦官を置き、明代には10万人にまで増えている。清では宮刑(きゅうけい・刑罰としての去勢)が廃止されて数は減ったが、1912年に清が滅びたとき、最後の皇帝・溥儀(ふぎ)とともに、紫禁城には多数の宦官たちが残っており、その数は1千人とも2千人ともいわれる。
日本は、昔から中国よりさまざまな文化を導入したが、この「宦官」が根付くことはなかった。唐文化を輸入したとき、隋代に一度は宮刑(去勢)が廃止されていたためなど、さまざまな説があり、はっきりとした理由は不明である。たとえば江戸時代の江戸城・大奥は、中国における後宮と同じ役割があり、時に男性が出入りして問題になることもあった。しかし、それで「去勢すべし」という罰ができるわけでもなく、大奥はあくまで「女の園」であり続けたのである。