「黄巾の乱」を起こした張角と卑弥呼の意外な共通点とは?
ここからはじめる! 三国志入門 第15回
雲のように実体がつかめない、新興宗教の指導者
「蒼天(そうてん)すでに死す、黄天(こうてん)まさに立つべし。歳は甲子(かっし)に在りて、天下大吉ならん」

「全相平話 三国志」に記される黄巾党の姿(国立公文書館)
一般的に三国志のはじまりは、このスローガンのもとに巻き起こった「黄巾(こうきん)の乱」(184年)であるとされることが多い。漢の世を「蒼天」と位置づけ、それに自分たちがつくる新たな世「黄天」が、とって変わろうというもので、目印に黄色い布を用いた。この黄色は五行説で「土」をあらわすもので、王朝の建国時の年号にも「黄」の字はよく使われた。
乱の首謀者は、太平道という新興宗教の教祖・張角(ちょうかく)。彼が主導していた太平道は道教の源流の一派という。天に祈り、罪を懺悔し、符を入れた水を飲めば救われる・・・といった呪(まじな)いで信者を獲得していた。今みればきわめて非科学的ともいえるが、困窮する当時の民衆は、そうした信仰に救いをもとめたのである。
信者数が増えるにつれ、太平道は政治色を帯び、ついには革命集団と化して、王朝簒奪(さんだつ)の行動を起こす。首領の張角は信徒を36の方(ひとつの方は1万人といわれる)に分け、各地の官公庁を焼き払わせた。信徒は、その勢いで付近の町村までをも略奪した。「民」の集まりである黄巾党の怒りは、まず各地方の役所にぶつけられたが、次第に官民問わずになり「賊徒(ぞくと)」の性格を帯びてもいく。
あわてた朝廷は、ようやく豪族たちに兵を率いさせ、黄巾党の鎮圧に向かわせる。当初は黄巾党の勢いが凄まじく、鎮圧は思うように進まなかった。それでも、皇甫嵩(こうほすう)、朱儁(しゅしゅん)、曹操(そうそう)といった主力軍の活躍で、黄巾軍の主だった将が次々討たれ、戦局は官軍優位に傾いた。勢いに陰りが見えた黄巾党は、首謀者の張角が蜂起から半年ほどで病に倒れたことが決定打となり、鎮圧された。
張角とは、どんな人だったのか。彼自身は官僚でも軍人でもない。民衆の中から生まれた指導者であったが、その人となりを記す逸話も残さず、乱のなかでいつの間にか病死する。彼の弟たち――張梁(りょう)、張宝(ほう)も同様だが、『三国演義』では弟たちは戦いで采配を振るう場面もあり、張角より存在感がある。張角本人は誰かに斬られるでもなく病死。まるで蜃気楼のように実体が見えないまま消えてしまう。
これと似たような記述の人が、同じ『三国志』のなかにいる。それは倭国(わこく)女王の卑弥呼(ひみこ)である。邪馬台国(やまたいこく)に住んだ卑弥呼は鬼道(きどう)という、占いや呪(まじな)いで人々を従わせたという点で張角に似ているし、彼女自身の人柄や容貌などをうかがわせる描写が皆無に近い点も同様だ。「年長大」と高齢であったことが記される程度で、突如として「卑弥呼すでに死すーー」と、正体をつかめないままに、この世から消える。太平道も邪馬台国も、張角や卑弥呼の死とともに歴史上から闇に消えてしまうのである。
張角も卑弥呼も、その実体を感じさせない点が酷似している。彼および彼女の実像は強い性格を持たない純朴な人で、それを取り巻く人々に祀り上げられた象徴的な存在、であったのかもしれない。
張角は36万もの民衆を蜂起させたカリスマ性から、相当な人物と思われるが、卑弥呼と同様に、その存在は神秘のベールに隠され、特に晩年は人々の前にあまり出なかったのではないか。
大規模な反乱こそ影を潜めたとはいえ、その後も黄巾党の残党は各地で根強く反乱を繰り返し続けた。漢王朝の威光は失墜し、黄巾賊討伐に加勢した地方の豪族たちが台頭し、武力を持ったことで戦乱の時代へと入っていく。張角はその先駆けともいえるが、きわめて謎多き存在といえよう。
(次回に続く)