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「三国志」の時代に、一騎打ちは本当にあったのか?

ここからはじめる! 三国志入門 第11回

300回以上も描かれる『三国志演義』の一騎打ち

四川省南充市・万巻楼の外壁にある「張飛と馬超の一騎打ち」/筆者撮影

「われこそ、燕人(えんひと)張飛(ちょうひ)なり!」

 

「これは願うてもない好敵。いざ!」

 

 名乗りをあげ、互いの得物を激しくぶつけ合う。好敵手同士になると、百合(ひゃくごう)、二百合と打ち合っても、勝負がつかない。両軍兵士はその凄まじい戦ぶりを、ただ固唾をのんで見守るばかり……。

 

 このような「一騎打ち」の場面が、小説『三国志演義』には幾度も出てくる。その数、実に300回以上である。それだけでなく、物語序盤では、呂布(りょふ)や華雄(かゆう)といった、たった一騎の猛将の活躍で空気が変わり、戦争の勝敗をも決めてしまうような場面もある。

 

 いかにも小説ならではの描写だが、たとえば張飛対馬超(ばちょう)、関羽(かんう)対黄忠(こうちゅう)、趙雲(ちょううん)対文醜(ぶんしゅう)などの名勝負も数多くあって、「一騎打ち」は作中の華のような様相を呈す。

 

 しかし、実際の戦場で、本当にこのような「一騎打ち」は、行なわれたのだろうか。

 

 結論をいってしまえば、『三国志演義』における一騎打ちは、そのほとんどがフィクションだ。戦いの一局面において、武将たちの「武」や「勇」が発揮される場面は多々あれど、それだけで勝敗に直結したり、ましてや大将同士が一対一で打ち合うようなことは皆無といえた。少々残念な気もするが、三国志の物語は現実の出来事なのである。

 

 ただ、まるっきりすべてが虚構だったわけではない。ほんの数える程度だが、「一騎打ち」と呼べる描写は史書にも存在する。

 

『正史』における正真正銘の「一騎打ち」三番

 

 最初に見られるのが192年に行なわれた、呂布と郭汜(かくし)の一騎打ち。長安で郭汜の軍勢に立ち向かった呂布が、「軍勢を遠ざけ、一対一で勝負をつけよう」と呼ばわったところ、これに郭汜が応じた。

 

 戦いの細微な描写はないが、呂布の矛の一撃を受け、郭汜が危うくなったと見るや、部下たちが馬で駆けつけて助け起こした(呂布伝『英雄記』より)。あっけなく一騎打ちには勝利した呂布だが、戦争には敗北し、郭汜軍に長安から追い出されてしまった。一騎打ちには勝利したが、郭汜にトドメはさせず、戦局を変えるには至らなかったようだ。

 

 そして195年には揚州にて、孫策(そんさく)と太史慈(たいしじ)が互いに単騎で偵察中に出くわすというレアケースが発生。一騎打ちを行なった。二人は正面から渡りあい、そのうちに孫策が太史慈の馬を突き刺し、うなじに巻いていた手戟(しゅげき)を掴み取ったが、同時に太史慈も孫策の兜を奪っていた。そのとき、両軍の騎兵が殺到したので二人は分かれ、そのまま去ったという(『太史慈伝』)。

 

 次に関羽と顔良(がんりょう)。正史『関羽伝』によると、関羽は顔良の軍勢に馬に鞭打って駆け入り、大軍の真っただ中で顔良を刺し殺し、首を切り取って戻ってきた、とある。厳密にいえば一騎打ちではないが「諸将のうちで関羽の相手になれるものはいなかった」とあり、単純な一騎打ちよりも、その武勇の凄さが際立っている。

 

 このように、正史には数える程度しか一騎打ちは見られない。やはり相当なレアケースだったようである。今回挙げた3つのうち、孫策と太史慈、関羽対顔良は、『三国志演義』でも屈指の見せ場である。そうした限られた描写をもとに、数多くの名場面へと昇華させた『三国志演義』は、やはり見事な読み物というべきだろう。

(次回に続く)

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上永哲矢うえなが てつや

神奈川県出身。日本の歴史、および『三国志』をはじめとする中国史の記事を多数手がけ、日本全国や中国各地の現地取材も精力的に行なう。著書に『三国志 その終わりと始まり』(三栄)、『偉人たちの温泉通信簿』(秀和システム)、共著に『密教の聖地 高野山 その聖地に眠る偉人たち』(三栄)など。

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