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三国時代の「疫病」の原因とは何だったのか?

ここからはじめる! 三国志入門 第6回<特別版 後編>

不衛生な環境が、集団感染を引き起こした

 

 赤壁の戦いにおいて、曹操軍を敗北に追いやり、歴史をも動かしてしまった疫病とは、どんなものだったのか。

 

 文献上には具体的な病状の記載もなく、よく分からない。ただ周瑜(しゅうゆ)が「敵は土地の風土に慣れず、必ずや疫病が生じましょう」と言ったように、当時長江の流域で流行った伝染病であった可能性が高い。

 

 かの時代の軍隊というものは、私たちがイメージする以上に不衛生な状態であった。曹操が残した『蒿里行』(こうりこう)という詩に、次のようなものがある。

 

”鎧甲には蟣蝨(きしつ)を生じ 万姓以って死亡す 白骨は野に露(さら)され 千里鶏鳴無し”

(よろいかぶとにはシラミがわき、多くの庶民が死に  白骨がそこらじゅうに転がり、見わたす限り生命はない)

 

 曹操の心情をうたう名句であるが、当時は軍中でなくともシラミやダニが湧きやすく、ネズミなどによる食害の被害も多かった。

 

 このネズミにも、シラミやダニが付着しており、細菌感染病の媒介となった。現在では「発疹チフス」として知られる病気である。高熱・発疹・脳症状を発し、主に冬に発生する。近現代でもナチス・ドイツのユダヤ人強制収容所で発生し、大きな被害を出したほか、第二次大戦下の日本でも流行した。

 

 赤壁の戦場では10万や20万をくだらない兵が、長江北岸に軍船や兵舎を並べて密集していた。みなが同じ釜の飯を食い、トイレや寝室も共同の雑魚寝。一度疫病が発生すれば、すぐにアウトブレイク(集団感染)してしまったのだろう。

 

 無論、昔の軍隊が密閉・密集・密接の「三密」を避けるなど不可能であろう。敵と戦う前に病気で死んだ兵たちの無念は、いかばかりであったろうか。

 

 赤壁の戦いから約10年後の217年(建安22年)、曹操の配下にいた司馬朗(しばろう)という人物が、居巣(きょそう)に駐屯していたとき、陣中に病が流行。司馬朗は薬を配り歩いたが、自分も病にかかって亡くなった。

 

 居巣というのは、現在の安徽省(あんきしょう)にあり、巣湖(そうこ)という湖が長江につながっている。曹操はその訃報を受け、赤壁の戦いのときの流行病が頭をよぎったのではないか。

流行病で亡くなった建安七子のひとり、王粲(おうさん)像(湖北省襄陽市)/筆者撮影

 同じ建安22年は疫病が猛威をふるった。「建安の七子」と呼ばれる文学者グループのうち、王粲(おうさん)・陳琳(ちんりん)・応瑒(おうとう)・劉楨(りゅうてい)の4人がたちどころに亡くなったのだ。呉将の魯粛(ろしゅく)も同年に急逝した。

 

当時の医学書に残る「傷寒病」

 

 彼らと同年代に生きた張仲景(ちょう ちゅうけい)という医者が、医学書『傷寒論』(しょうかんろん)を残している。それによれば、この時期に一族の者を「傷寒病」で多く失ったことで、その処方などを残そうと考えたという。

 

 当時、流行ったという傷寒病とは何か。「寒」の言葉から、冬に流行したインフルエンザや、前述のチフスの類ではないかと考えられている。赤壁の戦いは冬であった。新型コロナウィルスの発生時期も「冬」であったが、冬に流行する感染症は多い。

 

 疫病の流行という不幸を機に、史上初の医学書が生まれることになったのは良かったのか、悪かったのか、何とも言いがたいが、その惨状を後世に残そうという強い意志が伝わってくる。

 

 三国志の英雄や、戦場の兵士たちのなかにも、これらの病気が原因で亡くなった人も多かったであろうことを思うと、彼らがより身近な存在に感じられて胸が痛む。

 

 現在、この21世紀に発生しているコロナ禍も100年、1000年後まで語り継がれるかもしれない。私たち一人ひとりも何ができるか。それを考えることが、歴史のひとコマに生きる者としての役割ではないかと思うのである。

 

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上永哲矢うえなが てつや

神奈川県出身。日本の歴史、および『三国志』をはじめとする中国史の記事を多数手がけ、日本全国や中国各地の現地取材も精力的に行なう。著書に『三国志 その終わりと始まり』(三栄)、『偉人たちの温泉通信簿』(秀和システム)、共著に『密教の聖地 高野山 その聖地に眠る偉人たち』(三栄)など。

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