三国志の主要舞台は「三国時代」ではなかった?
ここからはじめる! 三国志入門 第2回
群雄割拠だからこそ「赤壁の戦い」などの逆転劇が起きた
「三国志って、三つの国の戦いなんでしょう?」
以前、『三国志』を知らない人に、そう聞かれたことがあった。「そうです」と答えるべきか「いや、そうじゃないんです」というか、ちょっと考えてしまったことがある。やはり、『三国志』を一言で説明するのはむずかしい。
確かに、歴史の教科書に載っている「三国時代」は、220年~280年の60年間。後漢が滅んで魏・蜀・呉の三国があった時代だ(※蜀は263年に滅亡)。ところが、一般にいう『三国志』のストーリーは220年から始まるわけではない。その数十年前の西暦180年代、日本でいう戦国時代の群雄割拠に似た状態から始まる。まだ「後漢」という国がかろうじて存続していたころだ。
『三国志』の最も主要な人物として知られる曹操(そうそう)、劉備(りゅうび)、諸葛亮(しょかつりょう)らの活躍も、180年代から230年前後に凝縮されている。彼らは三国時代というより、その前の後漢時代に活躍した人たち。だから実際には、三国時代が始まる前の約50年間が最も熱く、一般的には「三国志の時代」として知られている。
極端な話、220年以降に三国が正式に並立してからは戦力が拮抗してしまう。合戦はあっても勢力図が大きく変わるような出来事はごく少なく、あまり盛り上がらなくなってしまうのだ。
つまり『三国志』という「物語」の本質は、群雄割拠の状態から抜けだした三勢力が並び立つに至る「過程」のほうにある。曹操や劉備も、最初から大勢力だったわけではなく、ごく小さな勢力にすぎなかった。
日本でも尾張一国の主だった織田信長が、東の大国・今川義元に「桶狭間の戦い」で大逆転勝利し、天下取りの第一歩を刻んだことはあまりに有名。それと同じように、三国志の曹操や劉備も、不利な状況から、そうした逆転劇を経て皇帝の座へと近づいた。
曹操が10倍の兵力を持つ袁紹(えんしょう)を破った官渡の戦い(200年)、劉備と孫権が手を組んで、わずか数万で100万の曹操軍を撃退する赤壁の戦い(208年)は、三国志のハイライトであり、逆転劇だ。
「失敗の物語」に、三国志の本質がある
一方で、三国の英雄たちに倒された「敗者」の存在も『三国志』のなかで重きをなす。先に述べた「官渡の戦い」で曹操に敗れた袁紹などは、天下に最も近い名声と軍事力を持っていた。天下無双の武勇を誇った呂布(りょふ)も最後は策略で滅ぼされるが、何度も曹操を窮地に追いつめた。
蜀を築き上げる劉備は、ゼロに近い元手で旗揚げし、自前の領地すらなかった。曹操には負け続け、各勢力のもとを転々とした流浪人生。最後には蜀の国の皇帝にまで登ったが、そこに至るまでの道のりは苦難の連続。いつ命を落としても不思議ではなかった。
三国が並立したあとも、国力・軍事力では曹操・曹丕(そうひ)の二代で創業した魏が圧倒的な存在で、孫権(そんけん)の呉が次にあり、劉備の蜀はさらに小さかった。洛陽や長安などの大都市を押さえ、中原という人口密集地を支配していた魏に比べ、呉や蜀は地方政権に過ぎなかったのだ。劉備が倒れ、その志を継いだ諸葛亮は魏の討伐に何度も出たが、陣中で病に倒れる。結局、蜀は三国のうちで最初に滅びた。
劉備は、後世に小説『三国志演義』の主人公になった。本来、歴史書の『三国志』は曹操やその一族が創業した魏を正当とするが、民間に広まったのは『三国志演義』のほうだ。大衆は小勢力であり、常に敗勢に立たされていた劉備や諸葛亮に肩入れしたのである。
ただ、歴史を俯瞰してみれば、その魏を築いた曹一族も、晋(しん)という新興国家を建てた司馬一族にとって代わられ「敗者」となった。曹操も劉備も志なかばに倒れ、中国統一にも遠かった悲劇の主人公である。
言ってみれば、だからこそ『三国志』は人気があるのかもしれない。たとえ勝てずとも、完璧ではなくとも、その時々を生きるために奮闘する人々の姿。ある意味で「失敗譚」ともいえる血の通った人間ドラマが『三国志』には数多く込められている。読む人はそこに熱い思いを感ずるのではないだろうか。