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赤壁の戦い――曹操軍の敗退原因は「疫病」だった

ここからはじめる! 三国志入門 第5回<特別版 前編>

人類の歴史は疫病の歴史でもある

赤壁の戦いの古戦場と伝わる、湖北省赤壁市の長江沿いの風景/筆者撮影

 新型コロナウイルスの感染拡大で、世界中が混乱に陥っている。日本では少しずつ回復の兆しが見えているとはいえ、再流行も懸念される状況にある。

 

 一刻も早く解消されることを願うばかりであるが、今回は、そんな情勢を鑑みて「特別版」として「三国志と疫病」について、解説してみたいと思う。

 

 人類と流行病との戦いは、紀元前より始まっている。紀元前5世紀のギリシャ・アテネでの疫病で10万人が犠牲になり、古代ギリシャ文明を衰亡に陥らせた。また2世紀にはローマ帝国に広がった疫病が350万人から500万人もの人々の命を奪ったと伝えられている。病名は不明だが、どんなに文明が発達しても疫病の脅威は常に付いてまわる。

 

 3世紀の中国大陸。すなわち三国志の時代も、それは同じであった。なかでも歴史に大きな影響を与えたのが、西暦208年「赤壁(せきへき)の戦い」の折に発生した疫病であった。

 

 その戦いの舞台は、奇しくも今回の新型コロナウイルスの発生地と目される武漢がある湖北省、現在の「赤壁市」にあたる。

 

 映画「レッドクリフ」などでも知られる「赤壁の戦い」の経過は、北方を統一した曹操(そうそう)軍が数十万を号する大軍で南方を攻め、それを孫権(そんけん)と劉備(りゅうび)の連合軍数万(35万)が迎え撃つ。

 

 周知のとおり曹操が敗れ、その天下統一の野望がくじけ、三者の勢力が均衡状態となり、時代を「三国時代」に進めた一戦だった。

 

 

三国それぞれの歴史書に見える「疫病」の脅威

 

 圧倒的な兵力差をくつがえした連合軍勝利の要因は火攻めだったが、それ以上の大きな原因があった。

 

 まずは敗北した曹操の事跡を記す、正史『三国志』「魏書 武帝紀」を見てみよう。

 

「公〈曹操〉は赤壁に到着し、劉備と戦ったが負けいくさとなった。そのとき疫病が大流行し、官吏士卒の多数が死んだ。そこで軍をひきあげて帰還した」

 

 次に孫権軍の指揮官・周瑜の事跡を記す「呉書 周瑜伝」の一文。

 

「両軍は赤壁で遭遇した。このとき、曹公の軍勢の中にはすでに疫病が発生していて、最初の交戦で曹公の軍は敗退し~」

 

 最後に劉備の事跡を記す「蜀書 先主伝」から。

 

「(孫権は)先主〈劉備〉と力を合わせ、曹公と赤壁において戦い、大いにこれをうち破って、その軍船を燃やした。(中略)流行病が広がり北軍(曹操軍)に多数の死者が出たため、曹公は撤退した」(以上の引用は、ちくま学芸文庫『三国志』1~7より)

 

 以上、三国すべての記録に「孫権・劉備が勝って曹操が負けた」戦果および「疫病」「流行病」のキーワードがある。曹操敗北の要因に「疫病」が大きく影響したのは間違いない。

 

 周瑜は、その開戦の前に「現在は寒さが厳しく、馬にはまぐさがなく(中略)、土地の風土に慣れず、必ずや疫病が生じましょう」と、慣れない土地に陣取った曹操軍の弱みを言い当てている。

 

 冬の時期で、その厳しい寒気も病の原因になったようだ。曹操軍の兵たちは寒さと病で体力を消耗しており、そこに連合軍の火攻めを受けたのでなす術もなかった。戦う前からすでに敗北していたといえよう。

(次回へ続く)

 

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上永哲矢うえなが てつや

神奈川県出身。日本の歴史、および『三国志』をはじめとする中国史の記事を多数手がけ、日本全国や中国各地の現地取材も精力的に行なう。著書に『三国志 その終わりと始まり』(三栄)、『偉人たちの温泉通信簿』(秀和システム)、共著に『密教の聖地 高野山 その聖地に眠る偉人たち』(三栄)など。

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