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蜀の皇帝となった劉備は、どんな人物だったのか?

ここからはじめる! 三国志入門 第8回

命を奪いに来た刺客を手なずけた劉備の魅力

 

 西暦184年ごろ、当時24歳の劉備が旗揚げした時期、漢王朝は滅亡の危機に瀕し、庶民の多くは困窮にあえいでいた。

 

 その日をどう生きるか、明日からどう生きるべきか。暗中模索のなか、劉備のように常に前を向き、未来を志向する人物が必要とされたのだろう。

劉備の故郷(河北省保定市涿州市)に建っている記念碑/筆者撮影

 現在の北京に近い幽州(ゆうしゅう)の片田舎に生まれた劉備。小さいころ「おれは将来、皇帝の車に乗る」と公言してはばからず、それを叔父に叱られたりもしたが、なぜか皆から一目おかれる存在だったという。

 

 長じてからも、彼は本気で「皇室の末えいである自分こそが漢王朝を立て直し、天下を安寧に導く」ことを志したようである。

 

 勉強はあまり好まず、闘犬・馬・音楽を好み、きれいに着飾った。口数は少なく、人を立てるのがうまかった。天下の豪傑たちが不思議と彼のまわりに集まり、多くの若者が争って近づこうとしたという。

 

 関羽、張飛も、最初はそんな若者の一人だったのだろう。張飛は劉備と同郷の生まれで『三国志演義』では肉屋を営んでいたことになっているが、その出自はよくわからない。

 

 関羽のほうは、河東郡(山西省)からの流れ者で、民間伝承では塩商人だったともいうが、やはりよくわからない。おそらくは二人とも高貴からは程遠い身の上だったに違いない。

 

 劉備は出世してからも身分の低い人たちと一緒の席に座り、同じ食器でものを食べた。関羽も張飛も、そんな劉備の人柄に惚れ込んでしまったのだろう。

 

 あるとき、彼を殺しにきた刺客がいた。しかし、そういった劉備の振る舞いに感じ入り、事情を話して立ち去ったという。

 

 後のことになるが、劉備が曹操に追われて荊州(けいしゅう)を離れようとしたとき、10数万の民衆が彼と行動をともにしたいと願い出てきた。関羽も張飛も「この男に付いていきたい」と心の底から思ったに違いない。それは、あとで陣営に加わる趙雲や諸葛亮も同様だった。

 

 彼らは皆、終生劉備のために働き、そのそばを離れようとしなかった。

 

 利害関係を超越した魂の結びつき。いってみれば、子供じみた友情物語のようではあるが、これは実際の組織にとって何よりの強みでもある。それこそが劉備軍団の本質であり強さだったということができよう。

 

参考文献:正史『三国志』蜀書

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上永哲矢うえなが てつや

歴史著述家・紀行作家。神奈川県出身。日本の歴史および「三国志」をはじめとする中国史の記事を多数手がけ、日本全国や中国各地や台湾の現地取材も精力的に行なう。著書に『三国志 その終わりと始まり』(三栄)、『戦国武将を癒やした温泉』(天夢人/山と渓谷社)、共著に『密教の聖地 高野山 その聖地に眠る偉人たち』(三栄)など。

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