関羽と張飛は、なぜ劉備に忠義を誓ったのか?
ここからはじめる! 三国志入門 第7回
「願わくば、同年同月同日に死せん」
劉備(りゅうび)、関羽(かんう)、張飛(ちょうひ)の3人が、酒杯を手に義兄弟の契りを結び、生死を共にと誓いあう「桃園の誓い」。三国志のはじまりを飾る名場面だ。
「黄巾の乱」で荒廃した世を憂い、漢王朝の危機を救おうとする彼らは、集まった数百人の兵を引き連れて「黄巾党」の討伐に参加し、旗揚げを飾る。

桃園結義の再現場面(河北省)/筆者撮影
この「桃園の誓い」は正史『三国志』には記されていない。小説『三国志演義』による逸話である。ところが、3人の絆は完全な作り話というわけでもなかった。
正史『三国志』(蜀志)に「劉備は関羽と張飛に兄弟のような恩情をかけた。関羽、張飛は劉備のそばを片時も離れず、護衛として近侍した」とある。
もうひとり、趙雲(ちょううん)との関係も同様だった。「劉備は趙雲と床をともにして寝た」(『趙雲別伝』)と、関羽と張飛と同じ扱いであったことも伝わる。
彼らは一騎当千の豪傑たちで、親分の劉備に命を預けたようなものだ。いってみれば、かつての日本にもあった任侠道の結びつきに似ている。
敵方にあたる曹操(そうそう)や孫策(そんさく)の陣営にも、これと似た結束はあった。たとえば曹操は、夏侯惇(かこうとん)と同じ車に乗り、寝所への立ち入りを許可していた。孫策と周瑜(しゅうゆ)は「断金」(だんきん=金属をも断ち切る)という強い絆で結ばれていた。
しかし、曹操と夏侯惇は、もともと同族のいとこ同士。孫策と周瑜は同じ家の姉妹を嫁にとった本当の義兄弟だった。
初期劉備軍団の結びつきに血のつながりはなく、まさに精神を頼りにした特別な関係だったといって良いだろう。
しかも、劉備という人は漢王朝の皇族の末裔と称してはいたが、彼の代には家は没落し、わらじを編んだり、むしろを織って生計を立てていた。
関羽も張飛も、金銭的・経済的な援助を期待していたわけでない。あくまで劉備その人に惚れ込んで、その軍団の中核をなし、生死を共にしようとしたとみられるのだ。次回では、劉備の人物について踏み込んで紹介したい。
(次回に続く)