三国志の人名に出てくる字(あざな)とは?
ここからはじめる! 三国志入門 第9回
「玄徳」と名付けたのは劉備自身だった?
三国志に触れたばかりの読者がとまどいを覚えるのが、登場人物の姓名と字(あざな)ではないだろうか。
「わたくし、姓は劉(りゅう)、名は備(び)、字を玄徳(げんとく)と申します」
といった感じで、登場人物が名乗りを挙げる。人名は、この「姓+名+字」で1セットとなっている。
現代人の感覚としては、「劉備」が姓で、「玄徳」が名前かと思ってしまいがちであるが、実は間違いなのだ。

劉備・曹操・諸葛亮の姓と名、字の関係図/筆者作成
上の図のように、基本は姓と名が一字ずつで「劉備」がフルネーム。では字の「玄徳」とは何なのか。それは、成人後に自分で名乗った別名(通称)である。名は親につけてもらうが、字は自分で名乗ったのである。当時の史料にも記載が残っている。

3世紀の三国時代に呉に仕えた武将である朱然の墓から出土した名刺/筆者撮影
諸葛亮や司馬懿(しばい)など、二文字姓の人物もいたが、扱いは同じ。「諸葛」が姓で、「亮」が名。「孔明」は字である。司馬懿は「仲達」(ちゅうたつ)という字があり、この両者は字のほうでよく呼ばれる。5文字では長いため「諸葛孔明」や「司馬仲達」など、姓と字の組み合わせもよくみられるが、当時の本来の呼び方としては正しい。
実際、社会に出ると、似たような身分の者同士は「あざな」で呼び合うのが決まりだった。つまりは関羽を「雲長」、趙雲は「子龍」といったようにである。
中国人は姓の数が少なく同族が多いため、姓で呼び合うよりも字のほうが便利であったという事情もあろう。しかし、名(諱=いみな、ともいう)を呼ぶのは無礼なこととされ、避けられた。
つまり劉備を「劉備」と呼んでいいのは自分以外には親とか学問の師ぐらいで、同程度の身分であれば「玄徳殿」、他人からであれば「劉予州」といったように姓+役職で呼ばれたのである。
官職についた人は基本的に姓+官職で呼ばれた。曹操は丞相(じょうしょう)についたので「曹丞相」である。今でも人の名を呼ぶときは「〇〇部長」「〇〇社長」といったように姓と肩書を使うが、その慣習自体は同じである。
親や主君などの目上の者は諱を呼んでも良いとされ、劉備が自分の部下を「関羽」「張飛」と呼びかけるのは問題なかった。現代でも人を呼ぶときにフルネームでは呼ばないから、「羽」や「飛」あるいは字で呼んでいたと思われる。映画やドラマなどではフルネームで呼びあうが、そうしないと分かりにくいからだろう。
実際の劉備の言葉として「私と孔明は水と魚のようなものだ」というものがあるし、「哀しいかな奉孝、痛ましいかな奉孝」と、曹操が死んだ郭嘉(かくか)のことを字で追悼したという例が正史からも確認できる。それぞれの関係性や、時と場合に応じて使い分けたのだろう。
この概念は日本にも持ち込まれた。たとえば人前では呼ばれるのは姓(名字)だけで、名前で呼ぶのはよほど親しい人か目上の人ぐらいだ。
明治時代まではそれが顕著で、武士など相応の身分の人は本名(諱)以外に通称を名乗る風習があった。
わかりやすい例でいえば、勝海舟や坂本龍馬であろう。海舟の諱は義邦(のちに安芳)であり、海舟は号であった。坂本龍馬も「龍馬」は通称であり、「直柔」(なおなり)という諱を持っていたが、一般には知られていない。
現在の日本ではこの風習はなくなったが、それは現代中国も同じで「字」は廃止され、法律上は「姓+名」のみを使う。毛沢東や習近平のように姓が1文字、名は2文字が基本で、三国志の時代とは逆になっている。