英雄である曹操を、共犯者の陳宮はどこで見限った!?
ここからはじめる! 三国志入門 第27回
『三国志』の英雄・曹操。しかし、まだ権力者にのぼる以前は、彼の言動に「ドン引き」して離れていく者もいた。その代表格が希代の知恵者・陳宮だろう。曹操は自分のもとを去った陳宮に後々まで苦しめられた。「呂伯奢(りょはくしゃ)事件」を引き金とする陳宮(ちんきゅう)と曹操の「離別」を、「正史」や、人気作品の描写も比較しつつ考察してみる。

陳留で旗揚げの兵を集める曹操/安徽省許昌市・丞相府にて著者撮影
曹操の共犯者が設定された「演義」の「呂伯奢事件」
曹操の悪名を高めた「呂伯奢事件」は曹操の単独犯として歴史書に記されるが、小説『三国志演義』では、ともに逃げていた陳宮という人物が「共犯者」にされている。
「演義」によれば陳宮は指名手配中の曹操を助け、官職を捨て一緒に逃亡。じつに「熱い」人物だが、前述の「呂伯奢事件」では勘違いから彼自身も共犯者となる。心を痛める陳宮に対し、曹操のほうは反省しないどころか、呂伯奢本人をも殺害してしまう。
その後の展開だが、実は作品によって違う展開を見せる。「演義」における本来の筋書きは概ね以下の通りである。
呂伯奢を手にかけたのち、2人は数里先の宿屋に落ち着く。陳宮は、先に寝た曹操の顔を見ながら「かくも残忍な男とは知らなんだ。このまま生かしておけば後の災いとなろう」と、刀に手をかける。しかし「彼を殺せば義が立たぬ」と思いなおして、すぐさま曹操のもとを去った。
ところが、吉川英治『三国志』では描写がだいぶ違っている。陳宮は曹操のもとを去らず、その後も行動をともにするのだ。
――陳宮は、剣を抜いた。寝顔をのぞかれているのも知らず、曹操はいびきをかいていた。その顔は実に端麗であった。陳宮は迷った。
「いや、待てよ」
寝込みを殺すのは、武人の本領でない。不義である。
それに、今のような乱世に、こういう一種の姦雄(かんゆう)を地に生れさせたのも、天に意あってのことかもしれない。この人の天寿を、寝ている間に奪うことは、かえって天の意に反くかもしれない。
陳宮はそう考えたあと、曹操の隣に丸くなって寝入り、翌日に2人で曹操の実家に帰る。その後、曹操は郷里で兵を挙げ、全国に「董卓(とうたく)打倒」の檄を飛ばす。その檄文を作るのが陳宮の役目なのである。
ところがどうしたことか、その後の曹操の陣中に陳宮の姿は見えなくなる。さっぱり登場しなくなって、数年後にようやく登場するが、それは陶謙(とうけん)側の使者として、曹操の陣営を訪ねてくるというものだ。
しかし、曹操に散々なじられた彼はその後「打倒曹操」の急先鋒となり、呂布(りょふ)の軍師におさまる。陳宮の智謀と呂布の武勇は曹操を散々に苦しめるが、その展開は原典『三国志演義』とまったく同じ。再登場の折に「途中の旅籠から彼を見限り、彼を棄てて行方をくらましてしまった旧知であった」と書かれ、先の「檄文」の一件は無かったことになっている。
吉川英治は、当初陳宮に原作以上の重要な役まわりを与えるつもりが、途中でつじつまが合わなくなると思いなおし「演義」の展開通りに話を戻したのだろうか。陳宮が曹操軍を離脱するくだりがなく、設定ミスで処理されたのは返す返すも惜しいかぎりだ。
「正史」での熱量ある陳宮の最期と、曹操の涙
そして198年。陳宮は敗軍の将となり、呂布に連座して曹操に処刑される。その処刑の場で、曹操は自分のもとを去った策士・陳宮を殺すのを惜しんで、どうにか生かそうとする。しかし陳宮はそんな曹操の温情を受けず、家族の保護だけを頼んでみずから死を選ぶ。
実は、この最期の展開は正史『三国志』の呂布伝に基づくものだ。「陳宮は『早く処刑しろ』といい、そのまま走り出ていき、太祖(曹操)は涙ながらにこれを見送った」とまで史書(典略)には記されている。正史には曹操と陳宮の関係はほとんど記されていないが、人知れず演義版「呂伯奢事件」と似たようなことがあったのではなかろうか。ついそう疑いたくなる。
ともあれ「呂伯奢事件」で行動をともにしたという伏線もあり、この曹操と陳宮の別れの場面は「演義」にしろ、吉川英治版にしろ、物語中屈指の見せ場として読者の記憶に刻まれる。
ちなみに、吉川英治版を原作とする横山光輝『三国志』(漫画版)では、陳宮が曹操のもとを去らず、檄文を書くというくだりは同様だが、最期が実にあっさりしている。呂布が斬首される際、後ろにいるのがチラッと描かれるのみ。曹操は陳宮の死を惜しむ様子もない。なんともドライな描写が残念ではあるが、このように作品による描写の違いが興味深いところだ。