架空の人物なのに墓が建てられた周倉とは、何者か?
ここからはじめる! 三国志入門 第24回
忠実な従者として、関羽に生涯をささげる
中国各地に関帝廟(かんていびょう)というものがある。これは三国志の英雄・関羽(かんう)が神格化され「関帝」「関王」として祀られる廟だ。「神」である関羽の左右に付き従っているのが、関羽の子・関平(かんぺい)と、周倉(しゅうそう)である。

中国・河南省の関林にて。関羽の左後ろにいるのが周倉
周倉は『三国志演義』などに登場する架空の存在で、正史に名前はない。「演義」の第28回で「1千斤の怪力を誇り、鉄板のような厚い胸板の持ち主」として登場、もともとは「黄巾の乱」に参加した黄巾党の一員で、臥牛山(がぎゅうざん)で山賊をしていたところ、関羽と出会い、以後死ぬまで行動を共にする。
ただし、その怪力が発揮される場面はほとんどない。初登場シーンにしても趙雲(ちょううん)に叩きのめされて山塞(さんさい)を奪われ、関羽に泣きつくという情けないものである。「演義」全体でも、その出番は数える程度で「関羽の忠実な従者」の枠を出ない。あくまで「架空の人物」なのである。
一世一代の見せ場が第74回。219年、樊城(はんじょう)の戦いで、追い詰められてもひとり奮戦を続ける敵将・龐徳(ほうとく)を、周倉が舟を揺らし水中へ転落させる。すると周倉はすかさず飛込み、得意の水泳を生かして龐徳をひっ捕らえ、縄にかけるのである。
この場面、正史(「龐徳伝」)では「龐徳は水中(舟)に孤立し、関羽に捕らえられた」とあるだけだが「演義」は、ここに周倉の見せ場を与えることで、より面白みを加えているのである。
また正史(「魯粛伝」)には、呉の魯粛(ろしゅく)と会見(単刀会)する場面で、関羽の従者が声を発し、関羽がその者を怒鳴りつける場面がある。従者の名前は記されないが、これが周倉のモデルになったとも考えられよう。
関羽の神格化により、周倉も人気者に
「演義」では、それ以上の活躍はないが、架空の人物だけにアレンジしやすいのだろう。民間ではさまざまな逸話が生まれた。『笑府』(笑い話の選集)では「一日千里」を走る赤兎馬(せきとば)に乗る関羽に徒歩では追いつけないので、周倉は一日九百里を駆ける馬を与えられる。残りの百里は、疲れた馬を担いで自分の足で走った、などという逸話が紹介されている。
雑劇や京劇などで知られる中国の古典劇『走麦城』『収周倉』でも、周倉は決まって関羽の従者として登場する人気者となった。関羽が神格化され、超人的な活躍が付け加えられるようになったのに伴い、周倉も民間伝承の中で「成長」していったのだろう。
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湖北省の当陽県・麦城村にある周倉の墓。
湖北省の当陽県・麦城(ばくじょう)村には、なんと周倉の墓まで存在する。こんもりとした盛り土の周囲は鉄柵に囲まれ、門は錠前でしっかり保護されて荒らされないようにしてある。盛り土の前の立派な墓碑を見ると、その下には本当に周倉の亡骸が眠っているのではないかとさえ思えてくる。現地の人々にとって、周倉は単に虚構の存在ではなく、立派な英雄の一人なのである。
(次回に続く)
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