曹操が悪ガキ時代に憧れた、役人のお手本とは誰か?
ここからはじめる! 三国志入門 第25回
「曹操」ではなく本当は「夏侯操」だった?
三国志の英雄、曹操(そうそう)は宦官(かんがん)の孫だった。宦官といっても、祖父の曹騰(そうとう)は四代の皇帝に仕え、大長秋(だいちょうしゅう)という宦官の最高位に就任したほどの優れた人物だった。
父親の曹嵩(そうすう)は宦官ではなく普通の男性官僚だった。ただし、正史『三国志』には、その出自はまったくの不明とあり、何者かも明らかではないのだが『世語』『曹瞞伝』などの史料によると夏侯(かこう)氏の出身とされている。曹嵩は曹騰の養子に入り、その威光も借りて、三公(さんこう)という最高官職のひとつ「太尉」という、今でいう防衛大臣の地位にまで登りつめた。

故郷・安徽省亳州市に建つ曹操像
曹操はそんな偉い家の坊っちゃんだから、なに不自由なく暮らしたと思われる。もともと「曹」姓ではなかったから、本来は「夏侯操」と名乗っていたかもしれない。夏侯氏出身であれば、のちに重臣となる夏侯惇(とん)、夏侯淵(えん)が、曹操の従兄弟とされ、その配下のなかでも別格の待遇を受けていたこともよく理解できよう。
出身地は豫州(よしゅう)の沛国譙県(はいこく しょうけん)ということになっているが、前述の理由から都(洛陽)育ちだった。譙県は祖先の出身地であって、生まれたのも洛陽だったかもしれない。劉備や孫権のような田舎育ちでなく、曹操は生まれながらの都会っ子であった。甘やかされて育ったためか、幼いころは素行が悪く、その悪ガキぶりには限度がなかったという。
先輩に心酔し、不正を厳格に取り締まる
そんな若き日の曹操が「手本」とした官僚がいた。太尉の橋玄(きょうげん)である。役所にあっては、恨みを買おうとも不法を許さず、外戚や宦官であっても弾劾した。誘拐事件に彼の息子が巻き込まれたときも、橋玄は身代金を支払わず毅然として賊を攻撃した。そのために息子は犠牲になったが事件は解決。以来、都では誘拐事件が途絶えたという(『後漢書』)。
まさに放蕩息子(ほうとうむすこ)を絵に描いたような曹操も、この橋玄には、すっかり心酔したようだ。曹操は20歳のころに洛陽北部尉(ほくぶい)となり、夜間通行の禁を破った者など、法令違反者には棒打ちの刑に処した。皇帝に寵愛されていた高官の身内さえ忖度なしに叩き殺したので、すっかり違反者がいなくなったという。これも橋玄の影響によるものと考えられる。
また橋玄のほうも曹操を認めた。「天下は乱れようとしている。それを安んずるのは君かもしれぬ」と、その秘めた才能を見抜いたのである。
橋玄は、曹操に足りないものは名声だけであると思って、人物評論家の許劭(きょしょう)を紹介した。その許劭に曹操が会いに行くと「君は治世の能臣、乱世の奸雄(かんゆう)だ」と評された。つまり「お前は平和な世と、乱れた世とではまるで役割が変わる男だ」というのだ。聞いた曹操は大笑いしただけだったが、許劭が月に一度催す「月旦評」は絶大な影響力があり、そのおかげで彼の名声は大いに高まったのである。
「出る杭は打たれる」という言葉のとおり、当然曹操の失脚をねらう動きも出てきたが、曹操はつけ入る隙を見せなかった。県令にして洛陽から遠ざけるのが精いっぱいだったというのは、下手をすれば自分がボロを出して曹操にやりこめられるのを、みな恐れたのだろう。
中国のことわざに「ひそひそ話をしていると曹操が来る」(説着曹操、曹操就到)というものがある。日本の「噂をすれば影」と同じ意味だ。つまり自分の悪口を聞き洩らさない、抜け目のない人物として大陸では語り継がれているわけだ。黄巾の乱(184年)のとき、曹操はすでに30歳。その人物造形は、すでに洛陽の役人時代からある程度できあがっていたようである。