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蜀の皇帝になった劉備は、恐るべき「梟雄」だった?


三国志の主人公といえば、とくに日本ではズバ抜けた才能を持つ曹操(そうそう)を推す声が強い。だが、三国志の真の主人公といえば、やはり劉備(りゅうび)であろう。一度でも小説『三国志演義』などに触れた方であれば、あの『西遊記』の三蔵法師を思わせる聖人的な英雄を思い浮かべるかもしれないが、正史に触れると、まるで違う印象を受ける。今回は、その劉備の梟雄(きょうゆう)ぶりを紹介したい。


 

役所に殴り込み、巡察官を百叩きに

 

成都・武侯祠の三義廟にある劉備像(筆者撮影)

 歴史書『三国志』に記される劉備はかなりの野心家で、また破天荒なところを持つ人だ。その典型が「黄巾の乱」(184年)で旗揚げしたころのエピソードにある。戦功により、劉備はある地方の県尉(警察署長)に任命される。そこへ都から派遣された巡察官(督郵)がやってきた。「こいつは自分を罷免しに来たのか・・・?」と、心配になった劉備は、彼に直談判を申し入れたが、すげなく断られる。

 

 その塩対応にキレた劉備は、督郵の宿舎に殴り込んでひっ捕らえ、木に縛り付ける。そのうえ杖で200回も殴りつけた。「許してくれ」と都督が哀願し、やっと許したとある。「今日は、このぐらいにしといたろう」というところか。だが『三国志演義』では、これは部下の張飛がやったことにされている。

 

 その一方で、こんな逸話もある。劉備を殺そうと考えた者が、その陣営に刺客を送り込んだ。刺客は劉備の隙をうかがうも、その人柄に惚れ込み、ありのままを白状して帰ったという。劉備という人の任侠的な匂い、アウトロー的な気質がうかがえよう。

 

 そのように劉備は恨みを買わず、どこへ行っても歓迎されるという不思議な「人徳」があった。徐州を治めていた陶謙(とうけん)などは、兵を世話したばかりか領地までそっくり与え、劉備を後継者に指名してしまった。

 

官渡の戦いで、曹操を徹底的に悩ませた

 

 そして北方の雄・袁紹(えんしょう)も、劉備を気に入った者の一人だ。彼は曹操に蹴散らされて行き場をなくした劉備を、わざわざ軍勢をやって出迎えた。そして劉備が袁紹のもとに落ちついたころ、あの「官渡の戦い」(200年)が起きた。袁紹と曹操は、1ヵ月にもおよぶ官渡での持久戦を展開する。

 

 劉備は曹操を倒すため、積極的な動きを見せた。「南の劉表と組んで、曹操を挟み撃ちにしましょう」と進言。袁紹の許しをえて、曹操軍の背後に回り込み、その後方をかく乱した。劉辟(りゅうへき)、龔都(きょうと)ら反曹操勢力とつるんで、許都(曹操軍の拠点)の周辺を荒らしまわったのだ。

 

 この劉備の動きは、大いに曹操を悩ませた。曹操が官渡で数の不利を強いられたのも、このような後方の対応にも兵を裂く必要があったからだろう。そして南方の荊州の雄・劉表(りゅうひょう)の存在も不気味だった。もし、このときに劉表が兵を向ければ、歴史は大きく変わっていたかもしれない。だが劉表は動かなかった。曹操は命拾いし、官渡の戦いに勝利する。

 

 袁紹が倒れ、次に劉備が頼ったのは劉表だった。劉表も劉備を手厚く出迎えた。賓客としておくだけでなく、新野城という北部の最前線へ彼を派遣し、曹操をふせぐ防波堤にしている。

 

 かくして新野に身を落ち着けた劉備だが、ほどなく曹操軍の侵攻を受けた。兵を率いてきたのは夏侯惇(かこうとん)、于禁(うきん)という曹操軍の主力。だが劉備は、これを伏兵戦術で見事に撃退してみせた。小説『三国志演義』では、諸葛亮の初陣を飾る戦いだが、史実ではこれは諸葛亮を迎える前の話らしい。劉備は戦に負けてばかりの印象もあるが、実際はこのような強さも持ち合わせていた。

 

旗揚げから40年近く戦い抜いての「快挙」

 

 だが、その後に劉表が没し、彼の息子はあっさり曹操に降伏を申し入れる。やむなく劉備は東の孫権を頼り、彼と組んで「赤壁の戦い」に臨む。そして孫権との同盟をうまく利用して荊州(けいしゅう)南部を支配し、やがては益州(蜀)を奪い、とうとう「天下三分」の形勢をつくりだす。このような芸当、周りに助けられているばかりの人では無理であろう。

 

 孫権の部下、周瑜(しゅうゆ)が、劉備をこのように評している。

 

「劉備には梟雄(きょうゆう)としての資質があり、関羽や張飛といった虎や熊のごとき将を抱え、いつまでも人の下にいるような者ではない」

 

 まさに、この言葉のとおり、劉備の生涯は、万事そんな調子であった。名だたる有力者の庇護を受けながら、その下には絶対に留まらず、好機と見るや逃げた。あの曹操とて劉備を手元に置こうと優遇したが、兵を預けた途端に逃げられるというミスをやらかした。

 

 しまいには劉璋を追い出して蜀を乗っ取り、61歳で皇帝を自称するにいたった劉備。「三国志」の三国のうち、漢から禅譲を受けた正式な国家は魏だけで、蜀や呉は(理念はともかく)自称に過ぎなかった。ここまでくれば実に見事な、恐るべき「梟雄」というほかない。

 

 ちゃんとフォローもしておくが、劉備の根底には漢王朝の復興という雄大な志があったのは間違いない。彼の数々の「裏切り」も、戦乱を生き延び、志を遂げるにはすべて必要なものであった。だからこそ、その「夢」と溢れ出る「徳」を慕い、多くの人が彼のもとに集まったのだろうし、それが後世に「正義の主人公」として語り継がれる下地になったのである。

 

 しかし、彼と同じ時代に生まれた曹操や孫権から見れば、さぞ不気味で厄介な存在であっただろう。劉備の顔を見ながら「こいつが、一番信用ならないのだぞ!」と叫んだ呂布の最期の言葉も、また印象深いものがある

 

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上永哲矢うえなが てつや

歴史著述家・紀行作家。神奈川県出身。日本の歴史および「三国志」をはじめとする中国史の記事を多数手がけ、日本全国や中国各地や台湾の現地取材も精力的に行なう。著書に『三国志 その終わりと始まり』(三栄)、『偉人たちの温泉通信簿』(秀和システム)、共著に『密教の聖地 高野山 その聖地に眠る偉人たち』(三栄)など。

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