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諸葛亮(孔明)は「天才軍師」ではなく愚直な軍師だった?


「三国志」において、諸葛亮(しょかつりょう)の人気は圧倒的だ。「三国志? 知らない」という人に聞いても、諸葛孔明(こうめい)の名前は知っている。その知名度の高さは、中国史上では始皇帝とか孔子、毛沢東ぐらいか。一体なぜ、それほどまでに孔明の人気は高いのだろうか?


 

史実にも書かれた「三顧の礼」

蜀の桟道の跡地・明月峡にある諸葛亮像(四川省広元市)筆者撮影

 

 諸葛亮(以下、孔明)が歴史に登場するのは、西暦207年ごろ、27歳のときといわれる。当時、曹操の軍勢に脅かされていた劉備は、隆中(りゅうちゅう)にある孔明の草庵を、みずから訪ねた。

 

 劉備は20歳も年下の若造のもとへ足を運び、頭を下げたのである。『三国志演義』において「三顧の礼」と呼ばれる故事だが、これは創作ではなく本当だったという。正史において孔明の上奏文(出師の表)に、次の一文が出てくるからだ。

 

「先帝(劉備)は、臣(わたし)を身分いやしき者となさらず、みずから身を屈して、三たび臣を草屋のうちに御訪問くださり・・・」

 

 孔明も、賢人を欲していた劉備のもとであれば、「自分の才を存分に発揮できる」と考えたのだろう。その熱意、誠意に打たれて仕官を決める。間もなく、曹操が中国の北半分を統一して南下を開始し、劉備たちは真っ先に標的となって辛くも逃げ延びた。

 

外交官・交渉人として活躍した孔明

 

 孔明の戦略として知られるのが「天下三分の計」である。天下を曹操、孫権(そんけん)と三つに分け合って、三つ巴の形勢をつくろうとするものだ。この戦略は、他にも考案者がいたというが、その実現に向けてひと役を買って出たうちの一人が孔明である。

 

 孔明は、みずから外交官となって孫権陣営に乗り込み、劉・孫同盟を成立させるに至る。結果、この同盟軍で曹操軍に挑んで、見事、撃退に成功する。これが「赤壁の戦い」である。薩長同盟の実現で世を倒幕へ導いた、坂本龍馬の活躍が、これに通じるものを感じる。

 

 この戦いで曹操の天下統一の夢は打ち砕かれ、魏・蜀・呉の三国が並び立つ「三国時代」へと時代は移る。そして「赤壁の戦い」後は、主に内政に手腕を発揮し、呉(孫権)との交渉に力を注いだ。

 

 天下が三分され、劉備は蜀(しょく)の皇帝となるが、2年後の西暦223年に寿命が尽きてしまう。死の床についた劉備は孔明に対し「わが子・劉禅(りゅうぜん)が蜀の皇帝にふさわしい男であれば補佐してほしい。しかし、そうでないときは君がみずから(政権を)取れ」と告げて世を去った。

 

 感激した孔明は決意を新たにする。「自分はこれからも蜀の臣下として、その手足となって働こう」と誓い、これまで以上に国事に勤しむのである。もちろんトップになる気などなく、ナンバー2として振る舞うのだ。

 

なぜ勝ち目のない戦いに挑み続けたのか

 

 劉備の悲願は、魏を倒して漢の国を再興することだった。しかし、魏と蜀の国力差は61ほど。第二次世界大戦のアメリカと日本にも似ている。それでも孔明は魏への北伐を6年の間に5度も行なうが、戦果を挙げられず234年に54歳で陣中に没した。

 

 孔明は蜀の政治・軍事の両面の総責任者である丞相(じょうしょう)という地位にあったが、これは今でいう総理大臣のような重職。激務が身体をむしばみ、過労死で亡くなったとよくいわれる。

 

 孔明が勝ち目のない戦いをしたのは、ひとえに先帝・劉備の悲願を受け継いだからだ。将兵や民の負担も相当だったはず。だが、蜀という国が「魏に奪われた漢王朝の再興」という国是を捨てれば終わりである。座して平穏を保つことなど許されなかった。

 

 敗れたとはいえ、国のためにその身を捧げて死ぬまで奉公した忠義の精神は、日本の「武士道」にも通じる。国境や時代を超えて愛され続けるのは「天才だから」ではない。その「愚直」な生きざまや、私利私欲のない高潔さが、人々の支持を集めるからに他ならない。「天才軍師」ではなく「愚直軍師」なのである。

 

渋沢栄一も、諸葛孔明のファンだった

 

 江戸時代に『通俗三國志』が日本語訳され、葛飾北斎の弟子・泰斗(たいと)が挿絵を描いた『絵本通俗三國志』が爆発的に売れた。武士の世にあって、それらは知識人のバイブルのひとつとなり、そのなかでも孔明の人気は別格だった。

 

 大河ドラマ『青天を衝け』で話題の渋沢栄一も、幼少期に『通俗三國志』を読んで育ったひとりだ。著書である『実験論語処世談』に書いたとおり、彼も孔明のファンであった。

 

「私は次に諸葛孔明を好むのである。孔明は常識の発達して居ると同時に、動かすべからざる信念のあった人であるかのように思われる」と、その理由を述べた。また「諸葛孔明の出師(すいし)の表の中に『命を乱世の中に全うして、聞達を諸侯に求めず』とある」と、出師表の内容もよく知っていた。

 

「乱世では命さえ守れれば十分で、名声や富を求めない」という意味である。『論語』の教えを実践し「道徳と経済」の両立をめざした渋沢にとって、孔明はまさに理想の存在であった。そのような偉人たちが称賛した孔明人気が、後世へ脈々と続いているのである。

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上永哲矢うえなが てつや

歴史著述家・紀行作家。神奈川県出身。日本の歴史および「三国志」をはじめとする中国史の記事を多数手がけ、日本全国や中国各地や台湾の現地取材も精力的に行なう。著書に『三国志 その終わりと始まり』(三栄)、『偉人たちの温泉通信簿』(秀和システム)、共著に『密教の聖地 高野山 その聖地に眠る偉人たち』(三栄)など。

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