豪傑の関羽が、なぜ商売の神さまになったのか?
ここからはじめる! 三国志入門 第39回
横浜の中華街、神戸にある関帝廟(かんていびょう)をご存じだろうか。その名のとおり、偉人を祀る施設であるが、ここに祀られている人物こそ『三国志』の武将、関羽(かんう/?~219)である。豪傑として有名な関羽だが、おもしろいことに関羽は中国人の間で「商売の神様」として信仰を集めている。なぜなのだろうか?
正体不明の流れ者が、劉備軍最強の将軍に

横浜中華街・関帝廟では、毎年夏に関羽の誕生日(旧暦)を記念した「関帝誕」が行われる。これは2014年のもの(筆者撮影)
名駿・赤兎馬(せきとば)を駆り、青龍偃月刀(せいりゅうえんげつとう)を振るう豪傑。華雄(かゆう)をはじめ、顔良(がんりょう)や、文醜(ぶんしゅう)といった猛将を多数討ち取るなど、とくに小説での活躍は際立っている。
それほど有名な武将ながら、生い立ちは謎だらけ。若いころ、故郷の河東郡(現在の山西省)で何らかの罪を犯して、現在の北京の近くに位置する幽州(ゆうしゅう)へ逃れ、そこで劉備や張飛と知り合ったようだ。
関羽は張飛とともに劉備に仕え、行動をともにする。3人が義兄弟となって生死を共にと誓い合う「桃園の誓い」は、三国志を題材とする作品では定番のオープニング・シーンである。最近では『新解釈・三國志』(2020年)が記憶に新しいところか。
「関羽と張飛は片時も離れずに劉備を護衛し、同じ寝台で休んだ。劉備は2人に兄弟のような寵愛をかけた」と、正史『三国志』にも記されている。「桃園の誓い」はフィクションであったとしても、3人の絆は、よほどに強かったのだろう。
曹操をソデにして、劉備のもとへ帰る
ある時、劉備軍は曹操の軍勢に敗れた。関羽は劉備と離ればなれになり、一時的に曹操のもとへ降った。曹操は関羽を自分の配下として留めようと、あの手この手で厚遇した。当時の曹操といえば、皇帝を保護して手元におき、中原の大半を手中に収め、日の出の勢いだった。「根なし草」の劉備など捨てて、曹操のもとに留まりたいと思ったとしても不思議はない。
ところが、そうならないのが関羽なのである。「曹公のお気持ちは嬉しいが、私と劉将軍は、『一緒に死のう』と誓った仲です。いずれ、ここを去るでしょう」と、忠誠を貫いたのだ。
しかし、ただ帰るのでは不忠(ふちゅう)者。厚遇の恩返しに、曹操軍の一員として袁紹(えんしょう)との大いくさに参陣した。袁紹軍の指揮官は猛将・顔良だったが、関羽はその大軍のまっただ中に踊り込んで顔良を突き刺すと、その首を悠々と持ち帰ってきた。(『三国志』関羽伝)
顔良の首を置き土産に、曹操への義理を立てを済ませてから、劉備のもとへ戻ったのだ。曹操は残念に思いつつも、部下たちが関羽を追おうとするのを止めさせ「追跡してはならん」と、見逃したという。もし、関羽があのまま曹操のもとに居たら、関羽が後世でこれほどの人気を得ることも神として祀られることもなかっただろう。
劉備のもとへ戻った関羽は、その後も武勇を余すところなく発揮した。その活躍に曹操の参謀である程昱(ていいく)が「関羽、張飛の武は兵一万に匹敵する」(張飛伝)と絶賛したほどである。
死して、神格化が進んだ関羽
その後、劉備に荊州(けいしゅう)という要衝の統治を任され、敵国にまで武名を轟かせた関羽であったが、西暦219年、魏と呉に挟撃されて悲劇的な最期を遂げる。

関羽の出身地、山西省の解州関帝廟(筆者撮影)
しかし、その武勇と忠義心は中国大陸に語り継がれ、歴代の権力者たちが崇敬したこともあって神格化が進んでいった。名前も「関羽」とは呼ばれず「関公」や「関王」と呼ばれ、明代に至って「関帝」となった。とくに関羽の故郷である山西省出身の商人たちは、地元の英雄・関羽を敬愛し「守り神」とした。
商売をするには信用、つまり「義」が大事にされる。彼らは故郷を離れても関羽を心の拠り所とし、自分の店や町の集会場に、関羽の像を祀るようになった。これが「関帝廟」のはじまりである。次第に「三国志」の枠を超え、中国人たちが住む場所に必ずといって良いほど祀られるようになった。
神格化された関羽は、日本にも持ち込まれた。江戸時代に中国人たちが住んだ長崎の「唐人屋敷」(とうじんやしき)に関帝廟がつくられ、道教や仏教寺院のなかにも侍神として祀られ、今もいくつか残っている。横浜や神戸だけでなく、函館や那覇にも関帝廟があるが、いずれも華僑の町や中国人住居地区にできたものである。
海を越え、時を超え、国境をも超越して崇められる存在となった関羽。筆者も関帝廟へ参拝するたびに彼の忠誠心や武勇を讃え、心の栄養としている。