劉備が恐ろしいほど女性に「冷淡」だったのはなぜか?
ここからはじめる! 三国志入門 第34回
前回は、曹操の奥方(正室)に関してのエピソードを紹介したが、今回は劉備の妻。まずは主に甘夫人(かんふじん)と麋夫人(びふじん)の両名を紹介したい。物語で語られるエピソードは実際のところ、どうだったのか?
劉備は、じつは「女嫌い」だったのか?

劉備の夫人、麋夫人と甘夫人(河南省許昌市の春秋楼壁画にて筆者撮影)
おしなべて、『三国志』の登場人物は、女性に対して淡泊。非常にドライであったように読める。それは多分に時代的な事情、筆者・陳寿(ちんじゅ)の性格にもよるが、小説『三国志演義』にも踏襲され、男女の睦言(むつごと)や、恋愛めいた描写に乏しい。
ことに劉備である。正史も演義も、彼には女っ気がまるでない。前回のコラムで曹操と夫人のやりとりを紹介したが、あのようなウェットな会話が劉備には一切ないのだ。「関羽や張飛と床を共にした」「孔明と私は水と魚の関係」と、臣下との熱い一文はあっても、女性との浮ついた話はゼロである。
では女嫌いだったかというと、そうでもない。正室が4人、側室は少なくとも3人いた。ただし、名前が残る正室は糜夫人、孫夫人(そんふじん)、穆皇后(ぼくこうごう)。側室は甘夫人だけ。側室は子を産まないと名前が残らないことが多いのだ。4人のうち、穆皇后以外の3人は小説や映画などにも登場するから、ご存じの方も多いだろう。
劉備には早くから妻がいたが、この最初の夫人は名前も素性もわからない。彼女は196年、呂布(りょふ)との争いで捕虜にされた。その後、和睦して返されたものの、間もなく亡くなったらしい。正室がいなくなった劉備に対し、支援者である富豪の糜竺(びじく)が自分の妹を嫁がせた。こうして正室に迎えられたのが麋夫人である。
もう一人、甘夫人はどうだったのか。実はその前年に劉備が小沛(しょうはい)を領したとき、すでに「側室」に迎えられていた。前述の正室がいたためである。
甘夫人は生涯側室だった。麋夫人のような良家の出ではなく、身分が低かったのだろう。それでも劉備には愛されていたのか、奥向きの一切を彼女が仕切っていたという。207年に世継ぎの劉禅を産んで以降は「劉備軍の大奥」のトップだった。
47歳のとき、やっとできた跡取り息子
甘夫人が産んだ世継ぎ、劉禅の生年は207年。じつに劉備47歳のときの子である。劉備には、過去に何人かの多くの妻子が居たに違いないが、そのあたりはいっさい語られない。漫画『蒼天航路』には、劉禅の兄にあたる劉冀(りゅうき)という架空の息子が短期間ながら登場する。そのように、歴史の闇に消えてしまった妻子は何人いたのだろうか。
208年、襄陽(じょうよう)にいた劉備は、曹操の大軍に追われ、南方へ逃げた。このとき劉備はどうしたか。なんと「妻子を捨て、数十騎で逃げまわりながら、ようやく漢津(かんしん)まで逃げ切った」という。直前まで「民衆たちを見捨てて去るに忍びない」と言い、周囲を感動させたにも関わらず、そのザマであった。結局、置き捨てられた甘夫人と息子の阿斗(劉禅)を趙雲が命がけで救出して事なきを得る(長坂坡の戦い)。
小説『三国志演義』では、麋夫人は趙雲の足手まといになるのを嫌って井戸へ身を投げてしまう。だが正史では、麋夫人はその8年前に徐州(じょしゅう)で曹操の捕虜となり、以来消息不明になっている。曹操の屋敷に入れられたか、あるいは殺されたのか。
長坂坡で生き延びた甘夫人も、さすがに心労からか、赤壁の戦いの翌年(209年)ごろに世を去る。その後添えとして、政略結婚で迎えるのが孫権の妹・孫夫人である。なお、甘夫人はのちに皇帝となった劉備の没後に合葬され「皇后」と追尊されている。
劉備の前半生は負け戦つづき、流浪の軍団だった。逃げるたびに妻子を捕らわれ「たびたび正室を失った」と、正史(甘皇后伝)にあるが、本人はそれを気にしていた素振りもない。
兄弟は手足のごとし、妻子は衣服のごとし
中国には古来、「兄弟は手足のごとし、妻子は衣服のごとし」ということわざがあったようだ。つまり「衣服は替えがきく」というわけである。『三国志演義』第15回で、劉備はその言葉を例えに出して、義弟・張飛の自害を諫める。そして第42回で、幼子の劉禅を投げ捨てる。当時の群雄の多くは、そんな感覚で乱世を渡り歩いていたのかもしれない。
あまりにも劉備が家族にドライなためか、吉川英治は自著『三国志』に、芙蓉(ふよう)という初恋の相手を登場させ、若き日の恋模様を描いた。のちに登場する麋夫人を、その芙蓉と同一人物ということにした。だが、長坂坡で麋夫人が死ぬと「ああ、阿斗に代って、糜は死んだか」と一言で嘆くのみだ。
横山光輝の漫画『三国志』にも、序盤に芙蓉(芙蓉姫)が登場するが、その後は消息不明になる。のちに登場する「玄徳夫人」と同一人物かどうかは作中では語られない。両巨匠の手腕をもってしても、劉備の色恋模様は十分に描けなかったのだろう。
(続く)