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『三国志』の曹操の名台詞「むこうに梅の林があるぞ」は、嘘だった!?


『三国志』で、喉の渇きに悩む兵士たちを励ましたという「梅酸(ばいさん)渇(かつ)を医す」。曹操の知恵者ぶりを示す名エピソードとして知られるが、その出どころは何処なのか? その「梅林」とは、本当にあったのだろうか。


 

「三国志演義」では割愛された? 曹操の名指揮ぶり

 

「もうすこしだ! この山を越えると、梅の林がある。――疾く参って梅林の木陰に憩い、思うさま梅の実をとれ。――梅の実をたたき落して喰え」(吉川英治『三国志』より)

『三国志画伝』曹操の智、梅酸渇を止む/画・歌川国安(国立国会図書館)

 この台詞は、建安3年(198)。張繍(ちょうしゅう)攻めの行軍中、飲み水もなく渇きに苦しむ兵たちに曹操が言ったものである。

 

 それを耳にした兵たちは「梅でもいい!」「梅ばやしまで頑張れ」と、元気づく。おのおの梅の酸っぱい味を想像し、渇を忘れて進軍したという一幕。曹操の機転をあらわす「梅酸渇を医す」の逸話であり、漫画版(横山光輝)にも同じシーンが描かれ、広く知られている。

 

 じつは、原作『三国志演義』では、このような歯切れの良さは見られない。第21回「青梅煮酒論英雄」において、曹操が劉備を酒席に招いたとき「先年、こんなことがあったぞ」と回想で自慢話をするだけ。サラッと流される程度の扱いなのである。

 

 それが、上記のような名場面に昇華されたのは、日本版三国志の原点『通俗三国志』(江戸時代/湖南文山)からだ。このアレンジを吉川英治版が踏襲したことで、日本における曹操人気の高まりの一助になったと考えられよう。

 

 さて、この「梅酸」の逸話は正史には無い。出どころは5世紀に編まれた『世説新語』の「仮譎(かきつ)篇」の一節である。それによると、

 

「行軍中に水がなく、兵が渇きを訴えたので、曹操は『この先に大きな梅林がある。その甘酸っぱさで渇きを癒せ』と言った。そう聞いた兵は口のなかが潤って、泉がある場所まで進むことができた」

 

「仮譎」とは、人を「あざむく」といった意味であり、そのような話がいくつも収められている。つまり曹操は、兵たちをうまく騙して渇きを忘れさせたという解釈である。

 

 裴松之(はいしょうし)は、『三国志』の注に『世説新語』からも多くの逸話を抜き出した。たとえば揚修(ようしゅう)の「鶏肋」(けいろく)の話とか、曹植(そうしょく)が七歩で詩を作る話などである。だが、すべてを挿入したわけではなかった。なぜ、この「梅」の逸話を略したのか不明だが、ともかくも日本版の小説では、これが立体的な「名場面」として採用されたというわけである。

 

「梅林」の所在を匂わせる現地の伝承

 

 この『世説新語』や『三国志演義』では、実際に有りもしない梅林を「ある」といい、曹操は嘘をついたことになっている。「呂伯奢事件」「徐州大虐殺」と同じく、「悪名」を仕立てる作業の一環といえなくもない。

 

 ところが本場中国の伝承では「梅林」の痕跡が、わずかに残る。それが現在の安徽省(あんきしょう)馬鞍山(ばあんざん)市の梅山村という場所だ。明(みん)代の記録によると、そのあたりに「止渇亭」なる場所があった。

 

 また、その近くの石壁に「曹操行至此望梅止渴」との文字が刻まれていたという。小説にある曹操の活躍した場所からは、だいぶ南東に位置するが、それらしい梅林や池などがあったので、後世の人がゆかりの地にしたのだろう。清代には梅山塔という立派な石塔まで建てられたが、残念ながら日中戦争時に砲弾が当たり、破壊されてしまったそうである。

 

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上永哲矢うえなが てつや

歴史著述家・紀行作家。神奈川県出身。日本の歴史および「三国志」をはじめとする中国史の記事を多数手がけ、日本全国や中国各地や台湾の現地取材も精力的に行なう。著書に『三国志 その終わりと始まり』(三栄)、『偉人たちの温泉通信簿』(秀和システム)、共著に『密教の聖地 高野山 その聖地に眠る偉人たち』(三栄)など。

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