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【三国志入門】奸雄・曹操は、徐州大虐殺で何を失ったのか?

ここからはじめる! 三国志入門 第28回


初平4年(193)、曹操は陶謙(とうけん)が治める徐州(じょしゅう)を攻めた。まだ曹操が天下に大号令をかけるようになる以前のことだが、この戦いこそが彼の生涯の「汚点」であり、また将来に大きな禍根を残すことにもなった。戦いに至った経緯や影響とは、どんなものだったのか。


 

曹操が徐州を攻めたのは、本当に父の仇だったのか

 

 正史『三国志』によれば、曹操の徐州攻めはこのように記されている。「通過した地域で多数の者を虐殺した」「陶謙の軍は敗走し、死者は万単位にのぼり、泗水(しすい)はこのために流れが止められた」と、相当な数の犠牲が出たようである。

 

曹操銅像(中国・湖北省武漢の亀山公園にて)

 

『三国志』より少し後の時代に編まれた『後漢書』にもこうある。「曹操は数十万人の男女を殺し、その軍の通過した所では、鶏や犬の鳴く声も聞こえず、死体で泗水の流れが堰き止められたほどであった」

 

 死者が万単位から数十万となり、数は盛られているにしても大規模な虐殺があったのは間違いなさそうだ。いったんは引き揚げた曹操だが、翌194年にも再び徐州を攻め、前年同様に多くの民衆を殺害した。これが「徐州大虐殺」で、曹操の生涯でも最大の汚点となり、また後世に「奸雄(かんゆう)」として悪名を広める一因にもなった。

 

 史書からわかるのは、曹操は十余城を攻め落とすも、陶謙が籠もる本拠地は落とせなかった。退却中および進行の途上で「虐殺」に及んだのである。まるで腹いせのような暴挙とも読める。

 

 なぜ、それほどの暴挙に出たのか。それは父・曹嵩(そうすう)が、陶謙(とうけん)の部下によって殺害されたからという。「太祖(曹操)は復讐を志して東征した」と、父の敵討ちのためであったことは『三国志』武帝紀(曹操伝)でも説明されている。

 

 これは儒学の訓(おし)えである「考」にも基づいた、一見もっともらしい理由だが、腑に落ちないことがある。まず、いくら父の仇とはいえ、その怒りをなぜ陶謙だけでなく民衆にぶつけたのか。

 

 のちに徐州を手に入れたあと、曹操は陶謙の一族を処刑するなどの行為はしていない。同時代には張角や董卓(とうたく)のように、なきがらが晒された例もあったが、それも記録にはない。曹操が陶謙をそれほど激しく恨んだ形跡はなさそうなのである。

 

徐州攻めで曹操が被ったデメリットとは・・・

 

 曹操は単に徐州という「土地」が欲しかったのか。だが、そうであれば民衆を殺すより無傷で手に入れるほうが良い。なのに虐殺したとなれば、よほどに徐州の民の抵抗が激しかったのか・・・。このように謎だらけの徐州虐殺だが、曹操にとって名声失墜以上のデメリットが多く生まれた。以下に併記してみよう。

 

その1.拠点の兗州(えんしゅう)を奪われた

 

 前回のコラムでスポットをあてた陳宮(ちんきゅう)は、当初は曹操の支援者であったが、この徐州虐殺を機に完全に「反曹操」に転じた。曹操がこの徐州攻めで留守のあいだ、兗州(えんしゅう)を乗っ取ってしまおうとしたのである。陳宮は地元の有力諸侯・張邈(ちょうばく)に働きかけ、流浪中だった呂布を引き入れて決起した。曹操はこのため徐州攻めどころではなくなり、軍を返した。

 

その2.劉備を敵にまわした

 

 当時、劉備(りゅうび)は公孫瓚(こうそんさん)の勢力下にあった。陶謙の援軍要請により、公孫瓚は劉備を援軍として派遣して曹操軍と戦わせた。これが記念すべき劉備と曹操の最初の激突だった。以後、劉備は曹操の生涯最大ともいえる敵となった。

 

その3.徐州出身の逸材を手放すことになった

 

 徐州の出身者には、諸葛亮(しょかつりょう)、張昭(ちょうしょう)、魯粛(ろしゅく)、歩騭(ほしつ)、徐盛(じょせい)など、多くの人材がいた。彼らは「曹操の虐殺により」とは直接言及されていないが、みな戦乱から逃れて南方へ移住したことが正史に記録されている。のちに彼らが孫権(そんけん)や劉備に登用され、曹操の敵となったのは明らかに徐州侵攻が引き金であろう。

 

 これらのことから、曹操の徐州攻めが「三国志」の大きなターニングポイントとなったことがおわかりいただけるだろう。結果論になってしまうが、曹操はこの徐州虐殺で「天下」を失った。そう言い切ってしまえるほどの出来事とみられよう。

 

 この戦いで名声を落とした曹操だが、その2年後の献帝擁立で息を吹き返した感がある。虐殺の汚名を晴らすには、漢王朝の再興という大義名分しかない・・・そんな思いが働いたのも無理からぬところである。

 

(続く)

 

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上永哲矢うえなが てつや

歴史著述家・紀行作家。神奈川県出身。日本の歴史および「三国志」をはじめとする中国史の記事を多数手がけ、日本全国や中国各地や台湾の現地取材も精力的に行なう。著書に『三国志 その終わりと始まり』(三栄)、『偉人たちの温泉通信簿』(秀和システム)、共著に『密教の聖地 高野山 その聖地に眠る偉人たち』(三栄)など。

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