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最強の男・呂布が、董卓を暗殺した本当の理由とは?

ここからはじめる! 三国志入門 第47回


三国志の登場人物のなかで「最強」の呼び声も高い呂布(?~198年)。抜群の武勇を誇る一方、二度の主君殺しで「裏切り者」の汚名も残した人物である。なぜ、彼がそんな行為に至り、俗にいう「三日天下」で終わったのか。史書を通じて探ってみたい。


 

「人中に呂布あり、馬中に赤兎あり」

連環図画三國志(上海世界書局 中華民国16年)より「三戦呂布」の名場面。

 まず、呂布といえばその武勇なしに語れない。虎牢関(ころうかん)で関羽と張飛、劉備をまとめて相手に、一対三の大立ち回り。曹操軍との戦いでは、夏侯惇(かこうとん)や典韋(てんい)などの猛者が6人がかりでも討ちとれない。小説『三国志演義』の超絶な個人技もひとつの見せ場だ。

 

 その武才は、歴史書にも垣間見える。まず『英雄記』には、涼州の武将・郭汜(かくし)と一騎討ちし、これを退けたとある。正史『呂布伝』では「人中に呂布あり、馬中に赤兎(せきと)あり」と称えられ、楼門上の武器の刃先を射当てる神技を見せる。その武勇が単に創作されたものだけではなかったことをうかがわせる。

 

 彼の出身は北方の并州(へいしゅう)。騎馬民族の土地に近い北方、今でいう内モンゴル自治区だ。当初、呂布はその支配者・丁原(ていげん)のもとで働く将のひとりだった。

 

 そんな呂布に目をつけたのが董卓(とうたく)である。帝を抱き込んで都を牛耳った董卓は、武勇の士として名高い呂布を味方に引き入れようと画策。呂布はこの誘いに乗り、丁原の首と、その軍勢をまるごと手土産にして寝返る。見事なヘッドハンティングであった。

 

まったくの作り話でもなかった「美女連環の計」

 

 朝廷を欲しいままにし、絶大な権力を握った董卓。その傍らには常に呂布が近侍し、いよいよ誰も手出しできなくなる。だが董卓の天下は3年と続かなかった。192年、その腹心の呂布に討たれてしまうのである。

 

 物語(演義)においては、美女の貂蝉(ちょうせん)をめぐって両者が対立したことが知られている。リアリティに欠ける話に思えるが、これがまったくの作り話でもないようだ。

 

 呂布は奥御殿で董卓の側室だか侍女だかに手をつけ、それが露見するのを恐れていたという。前後関係は不明ながら、あるとき呂布は腹を立てた董卓に手戟で殴られそうになる。とっさに身をかわし、謝罪してその場はおさまった。だが、これ以後なにかと身の危険を感じることが多くなったようだ。

 

 こうして溝ができた董卓と呂布の関係を「好機」とみたのが、朝廷の重鎮・王允(おういん)である。三公という最高職の座に据えられ董卓に重用されていた。しかし、漢の忠臣である王允は、朝廷を牛耳る董卓の横暴を快く思わず、討伐の機をうかがっていた。

 

 王允と呂布は、同じ并州の出身である。大陸の人は昔も今も同胞意識が強い。王允は同郷の呂布を何かと世話して手懐けていたし、呂布のほうも王允を頼みにしていた。そんな間柄だから密命を授けたのだろうし、相当な見返りも約束していたはずだ。192年、王允の頼みを聞いた呂布は詔書(しょうしょ)を懐に入れ、みずから董卓を討った。詔書があるということは帝の同意を得ていた証で、謀反ではないことになる。

 

 かくして董卓は倒れ、王允と呂布の新政権が発足する。ところが『後漢書』などによると、王允は董卓を倒して燃え尽きたのか、失政を連発する。たとえば、それまでの与党派、つまり親・董卓派であった者たちを処刑したが、当代一流の文人・蔡邕(さいよう)なども容赦なく殺して反発を買った。呂布の言うことにも耳を貸さないどころか、衝突することが多くなった。

 

 さらに不味かったのが、董卓が西の守備のために残してきた涼州軍閥の者たちを冷遇し、その解体に動いたことだ。それで怒り狂った涼州軍の李傕(りかく)、郭汜らが大軍で押し寄せてきてしまう。防衛体制も杜撰(ずさん)であったのだろう。軍・政の連携がとれず、帝都・長安はもろくも攻め落とされた。呂布は郭汜を一騎討ちで破るなど奮闘するも、数百騎のみ連れて河南へ亡命。王允は李傕らに斬られた。

 

「三日天下」だった明智光秀に類似?

 

 董卓没後2ヵ月足らずで、三日天下ならぬ「40日天下」。この呂布の状況を、織田信長を本能寺で討った明智光秀に例える研究者もいる。たしかに、わずか11日後に秀吉に敗れ、後世「謀反人」と誹(そし)られた点は光秀と似ている。謀反成功までは良かったが、その後の見通しが甘かったことも共通するところではある。

 

 ただ、光秀は残党狩りに殺されたが、呂布はその後も数年間、乱世の台風の目となり続けた。このとき、故郷の并州に戻って再起する手も考えられたが、しなかった。旧主の丁原を斬った手前、地元の支持をなくしていたのかもしれない。袁紹(えんしょう)や袁術(えんじゅつ)などの大物たちも「二度の主君殺し」の呂布を危険視し、手元に置こうとしなかった。

 

 しかし、董卓を討った英雄として彼を評価する人もあった。それは陳宮(ちんきゅう)や張邈(ちょうばく)ら、反曹操派の有力者たちである。2年後の194年、兗州(えんしゅう)で呂布は再起。「打倒・曹操」の旗頭として戦った。最後は苦手な籠城戦に追い込まれ、その軍略の前に屈したが、曹操の前半生では袁紹とならぶ難敵であったのは間違いない。

 

 結局のところ、呂布は目先の欲に動くだけの人で、曹操や劉備のような野望や大局観がなかった。董卓暗殺も曹操との戦いも第三者の求めに応じてのことだ。ひいき目にみれば、情にほだされやすく、頼まれると断れない侠気があったともいえる。

 

 その強さとは裏腹の悲劇性を持つ独特の魅力から、物語の主役にはしやすいのだろう。京劇やドラマの世界では二枚目に描かれるのが定番だ。ゲームの世界でもやはり別格の強さを持ち、異様な輝きを放つに至っている。

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上永哲矢うえなが てつや

歴史著述家・紀行作家。神奈川県出身。日本の歴史および「三国志」をはじめとする中国史の記事を多数手がけ、日本全国や中国各地や台湾の現地取材も精力的に行なう。著書に『三国志 その終わりと始まり』(三栄)、『戦国武将を癒やした温泉』(天夢人/山と渓谷社)、共著に『密教の聖地 高野山 その聖地に眠る偉人たち』(三栄)など。

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