「赤壁の戦い」で敗北した曹操は、何を失ったのか?
ここからはじめる! 三国志入門 第45回
劉備と孫権の連合軍が曹操の大軍を撃退した、赤壁(せきへき)の戦い(208年)は『三国志』最大の見せ場として知られる。近年、話題となった映画『新解釈・三國志』でも終盤の見せ場に描かれ、『レッドクリフ』は、この戦いをテーマにした作品だった。今回は「正史」の記述をもとに、主に曹操の側からこの戦いに着目したい。
孫権の懐柔を試みるも、劉備に阻止される

赤壁古戦場(湖北省咸寧市)。現地には赤壁の戦いに関連したテーマパークがある。筆者撮影
西暦200年、官渡(かんと)の戦いで最大のライバル袁紹(えんしょう)を破った曹操は、それから7年で華北を制圧した。続いて向かうは、南方の荊州(けいしゅう)。このとき曹操は当然、中華統一をめざしていたはずだ。彼は自領に漢の皇帝(献帝)まで擁立しており、その大義を掲げての南征。抗う勢力はいない・・・はずであった。
だが、これに屈しない者がいた。「漢の復興」を掲げる劉備である。劉備は荊州を拠点に曹操に抗おうとするが、統治者の劉琮(りゅうそう)が、さっさと曹操に降伏し、足場を失った。そこで南方へ逃げようとしたところ、江東の孫権陣営から「同盟」の話が舞い込む。劉備は曹操の追手を振り切って孫権軍と合流し、数万の兵で曹操を迎え撃つ形勢に持ち込んだ。
この時点で、曹操には大きな失策があった。それは劉備を取り逃がしたことである。長坂坡(ちょうはんは)で追いつめながらも、趙雲や張飛などの猛将に阻まれ、夏口(かこう=現在の湖北省武漢市)へ逃げられた。このために孫・劉同盟が成立してしまったのだ。それでも曹操は悠々と構え、こんな「脅迫状」を書いた。
「近頃、罪人を討伐せんと軍旗を南へ向けたら、劉琮は降伏した。今度は水軍八十万を整えた。将軍(孫権)と呉の地で狩りがしたいものだ」(『江表伝』)
曹操は以前から、献帝に上表して孫権を討虜(とうりょ)将軍、会稽(かいけい)太守に任じるなどして懐柔策をとっていた。そのこともあって、孫権が自分に歯向かうはずがない、劉備を捕らえて差し出すだろう・・・などと期待したのかもしれない。
なにしろ孫権が降伏すれば、血を流さず江東地方が得られる。これは「戦わずして人の兵を屈するは善の善なるものなり」という『孫子』兵法に則った戦略である。当初、孫権陣営では降伏派が多数を占めたことをみても間違ってはいなかったといえよう。
ところが、ここで誤算が生じる。孫権が徹底抗戦の意を決したのだ。魯粛(ろしゅく)や周瑜(しゅうゆ)といった彼の兄貴分たちが、劉備や諸葛亮と気脈を通じ「曹賊、討つべし」と説得したのである。
そして対陣の結果、曹操軍は孫劉同盟軍の10倍の兵力を有しながら「まさか」の大敗を喫した。敗因はさまざまである。不慣れな土地での疫病の流行に見舞われ、黄蓋(こうがい)の偽装投降に騙され、火攻めが決定打となった。
「公〈曹操〉は赤壁に到着し、劉備と戦ったが負けいくさとなった。そのとき疫病が大流行し、官吏士卒の多数が死んだ。そこで軍をひきあげて帰還した」(『武帝紀』)
「官渡の戦い」では見事に小勢で大軍を打ち破った曹操だが「赤壁」では、その逆をやられる格好となった。むしろ最初から力攻めする気はなく、まともな戦いになる前に撤退に追い込まれたというべきか。
赤壁の戦いの勝敗がもたらしたもの
この戦いがもたらした影響は多大であった。それまで地盤を持たなかった劉備が荊州南部で独立し、孫権も野心を強めた。以後は曹操軍をあまり恐れなくなり、東の合肥(がっぴ)方面では呉と魏の戦いが長年、繰り返されるようになる。
陸戦ではほぼ負け知らずだった曹操軍が、水上戦に弱いことも露呈した。曹操が長江に阻まれた結果、三国分立の流れが形成され、天下統一は夢まぼろしとなったのである。
曹操は、どうすれば劉備や孫権に勝てたのか。打つべき手として、劉琮を降伏させた時点で、まず荊州の統治に力を注ぎ、軍備を整えていたら結果は違ったのかもしれない。「兵は拙速を尊ぶ」という兵法のセオリーで劉備を追ったはいいが、余勢を駆って烏林(うりん=赤壁の対岸)まで遠征し、睨み合いの状況をつくったことが、結果的には敗北につながったことになる。
それは彼の性格的なところに起因したのだろう。周瑜に使者をやって勧誘していたほどであるし、黄蓋の偽りの投降も見抜けなかった。「人材」を重視しすぎるあまり、勝機を逸した。ひいては「天下」をも失ったのかもしれない。
ただし、天下に見切りをつけた曹操は、漢から曹一族(魏)への支配体制の変革を進め、文学や才能重視の政治改革に本腰を入れ新たな国づくりに取り組む。やはりタダでは転ばぬ英雄なのである。