孫権は、なぜ曹操や劉備より人気がないのか?
ここからはじめる! 三国志入門 第46回
「三国志」において、魏の曹操と蜀の劉備はライバルのような関係だ。日本史に置きかえれば、それは武田信玄と上杉謙信の関係にも似ていよう。しかし、三国志は彼らだけに留まらない「第三の男」の存在が、展開をおもしろく複雑にしている。それが呉の孫権(182~252)である。しかし、どうにも孫権は曹操や劉備に比べると存在感が薄く、人気もいまひとつだ。なぜだろうか?
理由その1 三代目で存在感が薄い

湖北省・武漢にある孫権像。手前は孫策像。撮影:上永哲矢
孫権が江東地方(中国東南部)のリーダーになったのは西暦200年、19歳の時。兄・孫策(そんさく)が暗殺者の手にかかり、その跡を急きょ継いだのだ。それより8年前には父の孫堅(そんけん)も失くしていた。三代目であり創業の苦労がない点で、まず曹操や劉備に人気を譲らざるをえない。
そんな孫権の風体だが、かなり異様であった。エラが張った頬に大きな口。紫髯(しぜん)、つまり赤茶けたヒゲを生やしていたと歴史書『三国志』にある。小説『三国志演義』では碧眼(へきがん)とも書かれ、西洋人風の容貌をおもわせる。ただし「背は高いが足が短い」という描写も史書のもの。父や兄は「容姿に優れ、性格は闊達(かったつ)」とあるが、どうも孫権はそういうタイプではなかったようだ。音楽好きで「立派な風采(ふうさい)」を持つ周瑜(しゅうゆ)という個性派スターが部下にいたことも、彼が目立たない要因かと思う。
理由その2 赤壁の戦いで目立ったのは周瑜
208年、中国大陸のほぼ北半分を制圧した曹操が南下を開始し、孫権の領地へ迫ってきた。有名な「赤壁の戦い」である。彼の陣営のほとんどの者は曹操軍に恐れをなし、降伏を勧めた。そんな中、もっとも信頼する周瑜と魯粛(ろしゅく)両名が開戦をすすめた。心は決まった。『江表伝』によると、刀を抜くや机を斬り割って「今後、曹操に降れと言う者は、この机のようになるぞ!」と叫んだ。まことに痛快な見せ場だが、赤壁の戦場で全軍を指揮し、曹操軍の船団を沈めたのは周瑜。孫権の出番はなかった。
では、このとき孫権は何をしていたのか。もちろん本拠地の柴桑(さいそう)で、ただボーっと待っていたわけではない。赤壁の北東にある合肥(がっぴ)城を攻撃するため、みずから出陣している。合肥は曹操軍の防衛拠点で、長江の向こう側にあった。ここを取れば赤壁(荊州)と合肥(揚州)から二方面で攻勢をかけられ、北の徐州(じょしゅう)方面の情勢も有利になる。
勇ましく攻撃をかけた孫権だが、合肥城の守りは鉄壁だった。曹操軍の政治家・劉馥(りゅうふく)が8年かけて要塞化していたのである。孫権は1ヵ月にもわたって攻撃を続けたが、城はビクともしない。予想外の堅牢ぶりに手を焼いた孫権は、軍を返すほかなかった。
目立たずとも最前線で戦っていた
合肥城は落とせなかったが、逆にこれ以降、合肥方面で繰り返された曹操軍の侵攻をことごとく撃退した。赤壁の戦いの翌209年から217年まで、孫権は都合4度にわたって曹操軍の攻撃を受けるも、すべて防いでいる。一度は猛将の張遼(ちょうりょう)に肉薄され、命が危うくなる場面もあったが、得意の馬術と弓術を駆使して切り抜けた。
大将みずから戦場に出るなどの無鉄砲さは、父や兄ゆずりだった。孫権は虎狩りを好んだ。鹿や鳥ではない。「虎」である。飛びかかられて噛まれそうになっても、幾たび諌止(かんし)されてもやめなかった。孫堅や孫策は無鉄砲さが災いして命を落としたが、孫権もその血を継いでいたようだ。それでも天寿を全うできたのは天運のたまものであろうか。
このように、みずから最前線に出ることも厭わず見事な指揮ぶりを見せた孫権。「息子を持つなら孫権のような子がいい」と、曹操は思わずこぼした。なかば本音でもあったろう。
理由その3 関羽と劉備を死に追いやった
孫権は、曹操の野望を阻止しただけでなく、劉備にも煮え湯を呑ませている。天下三分したのち、劉備と孫権は荊州の領有権をめぐって争うようになった。219年、孫権は荊州(江陵)南部を奪い、関羽を討った。曹操と共謀して関羽を挟み撃ちしたのである。孫権は念願の荊州南部を得て、大幅に勢力を広げることに成功する。
それから3年が経った222年、劉備がみずから全軍をあげて蜀から攻めてきた。兄弟も同然だった関羽の敵討ちと荊州奪回のためである。孫権はこの危難に、まだ実績のうすい陸遜(りくそん)を起用した。結果、陸遜は猛攻をしのぎ、火攻めで蜀軍を壊滅させた。夷陵(いりょう)の戦いである。
このときすでに曹操は亡く、劉備は翌年に病で没した。物語において、孫権は曹操・関羽・劉備という人気者たちの夢を打ち砕いたダーティーヒーローなのである。後世、これも孫権の不人気ぶりに拍車をかけたようだ。『三国志演義』では孫権というより呉の武将たちの多くが劉備陣営の引き立て役に落とされているのは、そのあたりも理由になろう。逆にいえば、それこそ「第三の男」の面目躍如といったところか。
その後、孫権は呉の皇帝となり、71歳まで生きた。だが晩年は耄碌(もうろく)し、家臣の助言にも耳を貸さなくなる。もともと酒乱であったが、それにも拍車がかかった。豊臣秀吉のように、若い頃と晩年で性格がガラッと変わったのだ。
暴君と化した孫権は、自身の後継者争いをまとめきれずに死んだ。この失政は呉の命脈を縮めたのかもしれない。晩節を汚したことも彼の不人気ぶりを決定づけたろう。ただ、この孫権の存在こそ中国史で稀なる人気の三国時代の成立に不可欠であったのは確か。人気はなくとも、知れば知るほど奥深い人物なのである。